【津山人】大空を飛んだ田中次郎(海軍中佐)

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 田中次郎 明治39年10月23日東京芝区生れ、昭和60年8月1日没(左の写真は兄田中孝夫と)
 大正2年(次郎が8歳の時)父田中治平が亡くなり、2年後家族は津山に帰って来た。
津山中学校4年終了後、父治平の跡を継ぎ江田島にある海軍兵学校に入り大正15年卒業、海軍航空隊に入り、父と同様に中佐となりましたが、外地で終戦になり2年後に帰還。(奥さんと子供三人は、戦争中は加茂町に疎開していた)その後、奥さんの実家の逗子に移った。


 息子さんの石城さんの著書の中に、ご両親と自分との関りなどで興味のあるところがありましたのでお送りします。
 次郎氏は「男は負け戦のことなぞ、他人に語るものではない。」という態度の方でした。例えば、奥様が夫の自殺を心配された時に「そんなことするものか、我々が日本を再興するのだ。」と。また、娘さんの千里さんには「収容所に居る時、米軍を通して天皇陛下より、負けたからと自殺しないように、必ず日本に帰ってくるようにとのお言葉があった。と父から聞いている。」
 また、本当は飛行機を製作することの方に夢があった息子の石城さんが、防衛大を止めて三菱重工業に就職するつもりでいた時「飛行機に乗れない奴が飛行機など造れるわけがない。」と次郎に言われ、それなら飛行機に乗ろうじゃないかとなって今の道に進むようになったとのこと。
 寡黙な人が本当に言うべき時に言う言葉は万金の重みがある。これが、大正、昭和の親父の姿だったと、懐かしく思いました。
 私のように百姓生れの女性には、もののふ、軍人には縁がなく育ってきましたが、いざというときに、自分の思いでなくて大義のために行動する男の心情のようなものに久しぶりに触れたように思いました。
 結局、田中次郎家では、海軍軍人になるため兵学校に入学した次郎氏が、その当時の日本の戦況の状況で一番必要な飛行機の操縦士となり、その息子も戦後の日本空軍に入り次郎氏の後を継ぎました。また、石城さんの姉千里さんは、内田耕太郎氏(防衛大学校卒・海上自衛隊幹部)と結婚、治平の敬愛する上官東郷元帥ゆかりの海上自衛隊舞鶴地方総監を歴任。治平と同じ海軍の道を全うされたと聞いています。(原田兼子さん談)

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兄弟で(次郎・孝夫義男・実枝子)

田中次郎プロフィール(明治39年10月23日~昭和60年8月1日)
明治39年10月23日東京芝区生れ
父田中治平が亡くなり、2年後の大正4年家族は津山に帰って来た。
大正13年津山中学4年終了後、海軍兵学校に入校
大正15.3.27 海軍少尉候補生         昭和18.11.1 任海軍中佐
昭和2.1.20 八雲乗組ヲ免シ那珂乗組ヲ命ス    18.11.25 補第三艦隊司令部附
昭和13.10.10 補木更津海軍航空隊分隊長    昭和19.2.15 横須賀鎮守府附被仰付
  13.10.10 殘留隊勤務ヲ命ス          19.3.1 補第五二二海軍航空隊司令兼副長
  13.11.15 任海軍少佐             19.7.10 補第七六二海軍航空隊副長
昭和16.4.1 佐世保鎭守府附被仰付        19.9.15 補第七六二海軍航空隊附
  16.4.10 補第三航空隊飛行長         19.10.10 補第七六三海軍航空隊飛行長
  16.9.1 補海軍航空本部總務部部員      19.11.15 補第七六三海軍航空隊副長
昭和17.3.20 佐世保鎮守府附被仰付        19.12.28 佐世保鎮守府附被仰付
  17.4.1 補佐世保鎮守府参謀        昭和20.1.15 補洲ノ埼海軍航空隊飛行長兼教官
昭和18.7.20 補第三艦隊司令部附          20.2.1 補第七六三海軍航空隊副長
  18.8.16 補翔鶴飛行長                 海軍退役
                       昭和60年8月1日78歳没

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母と兄弟(次郎だけ帽子と制服が違う)      次郎18歳        家族で写す
(次郎海軍兵学校入学の年)         

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海軍兵学校時代の次郎の難解なノート(物理)

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遺品の中にあった「日本陽明学派系図表(山田方谷の名前も)」など

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母と兄弟                    弟義男の葬儀にて

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両親と兄        菊代と結婚       家族写真(千春・菊代・千里・次郎・菊代の母)

<遺品から>

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日本の飛行機

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日本の飛行機

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日本の飛行機                          津山上空

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(義男コメント)お母さんを真ん中に       (義男コメント)誰が一番兄きでせう?
オホッ ハハ フフ  やれおかし。        この格好で上原(余野)に行ってきた所


<結婚と夫のこと>
 1937(昭和12)年、「田中」姓の「次郎」と結婚致しました。20歳の5月のことでございます。主人は海軍兵学校54期の卒業で、東郷平八郎大将の副官「田中治平」(海軍20期)の次男。長男「孝夫」は帝展や日展にも度々入選した油絵の画家でございました。私の父は海兵18期でしたから、奇しき縁でございました。
 主人は海軍のパイロットで、いまは申しても甲斐ないことですが、華々しい時代もございました。敗戦の憂き目は一入で、フィリピンで捕虜となり、終戦の翌年に帰って参りました。自刃するのではと案じておりましたが、「そんなことするものか、我々が日本を再興するのだ。」と、力強く申しました。

 田中治平は中佐時代に戦艦「金剛」を回航するため、英国に行くことになりました。途中、インド洋から体調を崩してそれが腸チフスと判明致しました。現在では腸チフスは撲滅されており、過去の病となっておりますが・・・。
 もちろん、死病とは考えられませんでしたが、到着後ロンドンの病院に移りましたものの、不運にも救われることなくロンドンにて客死致しました。1913(大正2)年4月29日、次郎8歳のときでございました。盛大な海軍葬をしていただいたとのことでございます。(田中菊代著書『わたくし、田中パールと申します。』一部抜粋)

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家族写真(昭和26年)              長女千里の結婚式にて(1967年)
                        後列左から二人目 次女千春、
                        後列左から五人目 野田実枝子(次郎の妹)
                        内田耕太郎、千里・一人置いて次郎・菊代・石城                      


次郎の子ども達

内田千里(長女)(夫)内田耕太郎 第32代舞鶴地方総監
         防大4期卒 護衛艦隊司令官、佐世保地方総監 海将
  千春(次女)フランス人と結婚しフランス在住 翻訳・著術家

田中石城(長男)
1944年12月岡山県津山市生まれ

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防衛大学校 航空工学科卒業(第11期)
航空自衛隊 試験飛行操縦士課程 修了(第8期)
戦闘機操縦者としてF-86F(松島)、 F-104(千歳・小松), F-15(千歳)の各基地で勤務。
テストパイロットとしてXT-2、FS-T2改(F-1)等の技術・実用試験、 F-15技術審査及びXF-2並びにXOH-1技術試験等に参画。昭和61年3月第201飛行隊(F-15)初代飛行隊長、航空幕僚監部副監察官(安全主任:航空事故調査担当)、航空安全管理隊、 航空事故調査部運航調査科長、教育研究部長、第8航空団(築城基地)司令部防衛部長等を歴任。
2000年12月防衛庁技術研究本部 岐阜試験場長を最後に防衛庁 航空自衛隊(1等空佐)を退官。
■著書
『エアマンシップ』(かや書房)
『スクランブル』(かや書房)
『自衛隊エリートパイロット』(イカロス出版/共著)


私の名前は、日木二美男という。昭和19年12月生まれである。
 私の父・次郎は、岡山県津山市の出身で、海軍兵学校第20期の治平ときんの間の次男として生まれ、蛙の子は蛙となるべく、旧制津山中学(現津山高校)から第54期生として海軍兵学校に入校し、大正15年に卒業した。
 母・菊代は、同じく海軍兵学校第18期生の三村錦三郎とヤスの間に6人兄弟の末っ子として生まれた、いわば、海軍一家である。
 その中でも父はただ一人、将来の航空の重要性を認識するとともに、時代の要請もあり、航空兵科に進んだ。志那事変では、南京への渡洋爆撃に参加、大東亜戦争では仏印ハノイや南方戦線に従軍した。空母「翔鶴」の飛行長の経験もある。
 出撃前に「青柳」という都都逸を謡うと生きては帰れないというジンクスにも果敢に立ち向かい、出撃前の酒席では好んで「青柳」を謡ったという、死神にも見放された父は、フィリピンの山中で生きて終戦を迎えた。
もっとも、終戦直前には、飛行機や燃料、弾薬はもちろんなく、食料さえ底をついており、アメーバ赤痢などの伝染病とも戦いながら、芋の蔓で飢えをしのいでいたという。蛇や蛙、ネズミを捕れば大変なご馳走であったというから、想像を絶する苦難の道であったことは疑いない。
 その後、何年経っても、「男は負け戦のことなぞ、他人に語るものではない」という一言で、一切を語ってくれなかった。幾多の戦記物が著されたが、父はかたくなに沈黙を守り続けた。

 ここで、私の名前の種明かしをしておかねばなるまい。
父は昭和60年8月1日に他界したが、生前はハンサムで、エジンバラ公とも渾名されるほどだった。その故か、戦争の悲惨さに耐え兼ねたためかは定かではないが、戦後、防衛庁、自衛隊が発足したときも、再びその職に身を置くことなく、百貨店や、宝石店の店頭に勤務した。
 その父が、「俺のペンネームだ」といって教えてくれたのが「日木二美男」である。しかし私はこのペンネームが世に出たことを知らないので、今回チャッカリ使わせてもらうこととした。いわれはこうである。
これは、父が機嫌よく酔っぱらったときの話である。
「ニ美男の二の字の一本を上に持っていってごらん?日本一美男(にっぽんいちびなん)となるだろう。だけど俺は謙遜することもわきまえている。だから、ちょっと細工すれば日本一の美男になれるという意を込めて、日木二美男とした」という。寡黙な父にしてはウィットもあったのかと、いまさらながら感心している。普段は何を聞いても「沈黙は金」としか答えなかったのに・・・。
 戦火が激しくなるにつれ、東京は危険だからと疎開することになった。疎開先は父の故郷、岡山県津山市である。自宅分娩がほとんどであったこの時代に、二美男は姉弟三人の中で初めて、津山市の赤堀産婦人科医院で生まれた。終戦後まもなく、母の長兄・威を頼り、神奈川県逗子市に出てきた。(文:田中石城著『エアマンシップ』より一部抜粋)


(撮影:2021-1-26、2-8,3-19,3-27、5-8、5-18、6-5,6-9、7-30)