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高田地区元気プロジェクト「横野の滝などを風鈴で飾って高田を元気にしよう!」

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  2025年7月20日(日) 09:00 〜津山市上横野にある横野の滝「もみじ亭」界隈で、高田地区元気プロジェクトが実行されました。
 このプロジェクトは、令和6年度高田小学校6年生が卒業にあたり、6班に分かれそれぞれ「高田地区○○プロジェクト」を発表した中の一つ「横野の滝を風鈴で飾って高田を元気にしよう!」が、小学校関係者や連合町内会の賛同を得て、高田地区全体で応援しようと企画されたものです。
 とっても可愛い風鈴には地元の伝統応芸の「横野和紙」の短冊が吊るされています。そよ風にゆれる風鈴の音色を聞きながら食べる流しそうめんは格別に美味しいことでしょう。

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狩衣清水(千貫清水・満願清水)の由来について

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狩衣清水の由来について               (上記写真:狩衣清水の内上手の満願清水)

 狩衣清水の由来は、鎌倉時代末期元弘二年(1332)前年の元弘の乱により、隠岐の島に配流となった後醍醐天皇が途中当地の泉(清水)の傍で休息、御召の狩衣をぐいび(グミ)の木に掛けて洗顔の上、清水を飲まれた際に、京への早期遷幸を祈願し、満願清水と名付けられた。そして、出立の折、天皇方の目印にと狩衣を置いて行かれた。
 その故事により、当地を狩衣と称し、下手の井戸を千貫清水(洗顔清水)、上手を満願清水として現在も愛飲されている。
 今般、地元狩衣自治会では、地域の歴史遺産として守り伝えていく為に、上手井戸に石碑を新設しました。(下手井戸は石碑、案内板有)
 この歴史ある狩衣清水が末永く後世伝承される様願うばかりである。また、地元中正小学校校歌の一節にも「狩衣清水湧くところ」と歌われ親しまれている。

<関係年表>    
後醍醐天皇  京都進発   元弘二年(1332)3月7日(旧暦)
 〃     院庄館到着   〃      3月17日
 〃     〃  出立   〃      3月21日
 〃     〃  早朝  児島高徳十字の詩の出来事有
 〃    ※狩衣清水<休息>       3月21日
 〃     醍醐桜~大井野~千屋~根雨(ルートは諸説有)
 〃     隠岐の島到着         4月2日
 〃      〃  脱出 元弘三年(1333)2月24日
 〃     京都遷幸   建武中興(新政)

<参考書籍> 太平記・作陽誌・久米町史 他  令和6年 狩衣自治会(津山市宮部下字狩衣)

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2025 神楽尾公園のさつきと藤の花

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 2025年5月3日の神楽尾公園です。さつきはやっぱり神楽尾公園でしょう。
岡山県津山市総社にある神楽尾公園は、津山盆地のほぼ中心に位置する神楽尾山(標高308m)に築かれた中世の山城(神楽尾城跡)への出発地点でもあります。市内を一望する場所にあり、四季折々の植物観察やゴーカートなどが楽しめます春には藤の花や、桜がきれいに咲くスポットです。

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2025 尾所のさくら満開の頃

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 2025年4月21日、尾所のさくらが満開になり青空の中に美しく映えていました。
近年、少し傷んでいたのが気になっていたので、近くに用事があるたびに訪問していましたが、今年も綺麗に咲いてくれたのを見て安心しました。
 4月のはじめに立ち寄った時には、重機が根元にあり何事かと思いましたが、根を痛めないように根元にあった碑を移動しているところでした。傷んだ枝も綺麗に整えられすっきりした姿になっていました。綺麗に咲いたさくらの花を見て私も元気をもらいました。ありがとう。

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2025 長継山 千年寺のさくら満開の頃

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 2025年4月9日の長継山千年寺は、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 今は、桜の木が大きく育って、とても綺麗に整備されています。(2014年4月6日の取材

 現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三 箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。
(庫裡を取壊した後、大東亜戦中に疎開して来ておられ、昭和50年千年寺徒弟となった梅本南山翁が昭和61年まで居住)

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堀坂大日寺(加茂郷88ヶ所霊場第56番札所)

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 堀坂大日寺(加茂郷88ヶ所霊場第56番札所)は、津山市堀坂地内のJR因美線滝尾駅北400mの踏切脇を数十m入った薮の中にあり、本尊は大日如来です。木造トタン葺き、土壁。(先達は木元林造さん)(2023年3月28日撮影)

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元文一揆発頭人 義民藤九郎・与三右ヱ門之慰霊碑

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 元文4年(1739)、不作が続く美作国勝北郡(今の岡山県)の幕府領で百姓3千人が蜂起し、野非人の扮装で富家に押し掛け米や金銭を要求し、鎮圧後に北野村(今の勝田郡奈義町)藤九郎・与三右衛門が死罪となりました。
 平成15年(2003)、経済産業大臣の平沼赳夫の揮毫による「元文一揆発頭人義民藤九郎与三右ヱ門之慰霊碑」が奈義町内に建てられました。
(2024年6月14日撮影)

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津山市昭和町の国道沿いの「安黒一枝翁之碑」

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 津山市大篠にある、最後の大庄屋安黒家、一族から出た安黒一枝は、津山市の吉井川右岸地域の開発に尽力した。津山市昭和町の国道沿いに「安黒一枝翁之碑」が建てられ顕彰されています。


 安黒一枝の日記は、明治32年から昭和38年まで日記帳48冊と大学ノート23冊、その他の綴り14冊が残されている。これらは故小谷善守氏の遺族が文化財センターへ寄贈された資料の中に含まれていたものである。生前故人の日記を紹介して欲しいとの要請を受け、今回、第1回目として昭和5年~昭和9年までの日記から大谷区画整理組合に関する記述を取り上げる。
 安黒一枝は明治12年東北条郡大篠村に安黒盛人の長男として生まれる。父盛人は、明治18年東北条郡第3戸長役場の戸長となり、明治24年、高田村の村長に就任する。その後、津山中央銀行監査役などを努めた。
 一枝は、明治43年大篠産業組合を創立し、常務理事となる。その後、妹尾銀行、津山貯蓄銀行、中国信託会社、作備銀行、山陽銀行、美作木材酒造、津山商事などの役員を歴任する。閑谷黌では大原孫三郎と同窓である。
大谷土地区画整理組合
 昭和4年津山町から津山市に移行する中で、久山、安尾、井汲、高岡、橋本、田口、西川 柴田、平井らと毎日のように熟談を重ね区画整理組合を運営して行った。
 最初に「川向土地」の話が出るのは大正15年。次に昭和6~8年にかけて準備が進められ、昭和8年大谷地区土地区画整理組合が創設。昭和9年から本格的に事業が開始される。現在の大谷地区を当時は「川向」と呼んでいた。
(文:年報津山弥生の里16号 大谷土地区画事業の一側面~安黒一枝の日記から(1)~ 岩本えり子)

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原口下薬師堂(加茂郷88ヶ所霊場第77番札所)

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 原口下薬師堂(加茂郷88ヶ所霊場第77番札所)は、津山市加茂町原口下にあり、原口の入り口の県道右側の高台にあります。木造瓦葺き、2010年に建て替えられています。御本尊は薬師如来です。(先達は木元林造さん)(2022年11月9日撮影)

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高下薬師堂(加茂郷88ヶ所霊場第60番札所)

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 日高下薬師堂(加茂郷88ヶ所霊場第60番札所)は、加茂町成安高下にあり、加茂町インフォメーションハウスの川向うの田の中の山すその尾島家墓地の上約30mの所にあります。本尊は薬師如来です。木造瓦葺き、土壁、道路から少し石段を上がります。
(先達は木元林造さん)(2022年11月10日撮影)

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