覚鑁山 遍照院 宇南寺(真庭市)
当山は行基菩薩の開山で、元は雲南寺と号していました。弘仁の年間、嵯峨帝の勅願所となり、鎌倉府より寺領七十石を賜りました。
元弘の変(一三三一年〜)に、後醍醐天皇が隠岐の国へ御遷幸の際に、御幸宿せられました。
本堂内に明和又太郎長年の遺墨があります。
境内には大永七年(一五二七)に建立された、先住十五代の宝篋印塔があります。
(美作八十八ヶ所霊場 第50番札所 )
(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年12月4日撮影)
当山は行基菩薩の開山で、元は雲南寺と号していました。弘仁の年間、嵯峨帝の勅願所となり、鎌倉府より寺領七十石を賜りました。
元弘の変(一三三一年〜)に、後醍醐天皇が隠岐の国へ御遷幸の際に、御幸宿せられました。
本堂内に明和又太郎長年の遺墨があります。
境内には大永七年(一五二七)に建立された、先住十五代の宝篋印塔があります。
(美作八十八ヶ所霊場 第50番札所 )
(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年12月4日撮影)
2025年5月18日、出雲街道 勝山宿の会主催で、最終回つながる出雲街道(Ⅲ)を歩こう会(第3弾第3回)が開催され参加してきました。1年以上前の記憶をたどりながら、まとめてみました。
「出雲街道」を現在の真庭市を西に向かえば、美作国の久世、勝山宿、美甘宿、新庄宿、新庄宿を過ぎ、国境の最大の難所(四十曲峠)を越え、伯耆国の板井原宿、根雨宿、難所の間地峠を越えて、二部宿へと繋がります。(出雲街道 宿場名の語源由来)
大変長きにわたり、「つながる出雲街道を歩こう会」でお世話くださった「出雲街道 勝山宿の会」の皆様ありがとうございました。言葉には出せないほどの感謝で一杯です。
(説明文:「出雲街道 勝山宿の会」発行資料より転載)(過去の取材一部)
鯉ヶ窪湿生植物群落(国指定天然記念物 昭和五十五年三月六日指定)
この群落は、新見市の西部、広島県との県境付近にある標高約五五〇mの鯉ヶ窪池の周辺に広がる湿原内にある。湿原の平面は、鯉の形をしていて、常に水湿を保ち、土地の人々が「沢っ田」と呼ぶ 泥沼地である。この湿原には、オグラセ ンノウ、ビッチュウフウロなど隔離分布を示す希少植物や、寒地性植物のリュウキンカ、エゾシロネなどのほか、わが国固有の植物アギスミレ、サワオグルマ、サギソウ、スイランなどが分布する植物群落の宝庫である。季節により、それぞれの植物が美しい花を競い合い、「西の尾瀬」ともいわれる。西日本の代表的な 湿生植物群落として学術上の価値が高い。 新見市教育委員会(文:現地案内板より)(2026年7月29日撮影)
曹洞宗 圓通閣 澤龍山少林寺(美作三十三観音十一番札所)
2026年5月11日、少林寺の「なんじゃもんじゃ」の花を拝見しに足を運びました。
参道横に佇む大きな木には真っ白な花が咲き誇り、その美しさはまるで青空に浮かぶ雲のようでした。
「なんじゃもんじゃ」とは、モクセイ科の珍しい樹木「ヒトツバタゴ」の別名です。5月上旬から中旬にかけて開花しますが、今では環境省のレッドリストで絶滅危惧Ⅱ類に指定されている貴重な木とのことです。
また、少林寺は冬の表情も魅力的で、クリスマスの時期には境内や参道が鮮やかなイルミネーションで飾られ、訪れる人の目を楽しませてくれます。
後醍醐天皇ご復活の宮である作楽神社において、令和8年5月3日から10日までの期間、「菖蒲を愛でる会」が開催されました。残念ながらイベントは拝見できませんでしたが、会期中は様々な奉納行事や催しが企画され、4日には琴の演奏をはじめ、弾き語り、民謡、日本舞踊、尺八、謡曲、詩吟などが披露されました。また、5日には「ちびっこ宝さがし」や紙芝居、6日には「笑いヨガ」の体験会が行われるなど、終始多くの人々で境内が賑わったそうです。(2026年5月8日撮影)
由緒
大正5年(1916)9月7日、廣嶺神社・宮国神社・檜神社・聖神社の4神社を現在地に移転合祀し、新に本殿、幣殿、拝殿を新築、社名を河野神社と改称。
廣嶺神社、宮国神社、檜神社、聖神社の四神社を大正五年九月七日、現在地に移転合祀し、社名を河野神社と改称。
旧廣嶺神社は、社伝に天平十四年九月十八日播磨国廣嶺神社のご分霊を勧請奉祀すと伝え、代々牛頭天王と称す。
旧宮国神社は創立年代明らかならず口碑に紀伊国元宮熊野神社のご分霊を勧請奉祀すと伝う。古くより若一王子権現と称す。
旧檜神社は、一に火退大明神と称し火災除けの神として祭られる。
旧聖神社は創立沿革詳らかならず、往古より聖大明神と称す。
古来より当社は肩及び手、腰、足の病に霊験著しく崇敬者は400年の昔より、県下はもとより岡山県、兵庫県に亘り、奉納された手形は数知れず。世に若一様様を以って知られている。
大正10年(1921)2月11日神饌幣帛供進神社に指定された。尚、河野神社神職祖は家系によりその源を愛媛県温泉湯月城城主より発し、その後20代目より神職を奉じ400年の現在に至る。
(文:境内由緒書きより転載)
円応寺由緒
鎌倉後期から播磨に進出していた聖一派の大朴玄素を開山として、暦応2年(1339)赤松円心が創建したもので、室町幕府の官寺制度のもとで十刹につぐ諸山に位置づけられた。
住持の推挙は春日部流がおこなっており、外護は円心から貞範に受け継がれたらしい。
一時退転した後に近世に再興され堂が現存するとともに、大伽藍をしのばせる礎石、佐用範家の墓と伝承される南北朝期の宝筺印塔が残る。
(文:兵庫県立歴史博物館HPより転載)(2025年7月26日撮影)
瓢箪山1号墳 ・種別:記念物(史跡)・指定年月日:昭和44年10月9日
所在地:桑下1272-3番地他 ・所有者:津山市 ・員 数:1基
倭文(しどり)川北岸の標高160m付近の丘陵上に位置する全長35m、後円径18m、前方長17m、高さ5mを測る前方後円墳です。古墳の主軸は東西方向に向いています。後円部には乱掘孔が開口し、また前方部には稲荷社の小祠が存在しています。
築造時期等についての判断は困難ですが、この流域を統括する首長墓のひとつと考えられています。(文:津山市教育委員会発行『津山市の文化財』より)
後醍醐天皇が隠岐へご遷幸の時(1332)院庄の西、木の下に薬師如来が埋まっている事を告げたこの場所に寺を建て、この薬師如来像を本尊として安置し「金竜山天福寺」とした。
ふくらしの木の根っこでご本尊が見つかった事から、ふくらしの「福」をとって「天福寺」に、寺の後ろの池に金色の大蛇が住んでいた事から、山号を「金竜山」としたのだろう。
元は「金竜山天福寺」と称する寺院であったが、今は「天福庵」と称する小さな堂として残っている。(文:現地案内額より)(2025年9月20日・12月13日撮影)
元弘二年(1332)後醍醐天皇は隠岐配流の途中の3月15日にここでお泊りになったらしい。
後醍醐天皇御駐蹕の建立は、明治27年5月福地常太郎の発願により広く有志を募り、明治35年2月竣工式が行われたそうです。