
元文一揆発頭人 義民藤九郎・与三右ヱ門之慰霊碑

美作最大級の横穴式石室-井上火の釜古墳-(鏡野)

御代官 池田仙九郎・重田又兵衛様塚

猫と恋する作家展(勝央)

元文4年(1739)、不作が続く美作国勝北郡(今の岡山県)の幕府領で百姓3千人が蜂起し、野非人の扮装で富家に押し掛け米や金銭を要求し、鎮圧後に北野村(今の勝田郡奈義町)藤九郎・与三右衛門が死罪となりました。
平成15年(2003)、経済産業大臣の平沼赳夫の揮毫による「元文一揆発頭人義民藤九郎与三右ヱ門之慰霊碑」が奈義町内に建てられました。
(2024年6月14日撮影)
2022年2月9日撮影
2024年6月14日撮影
元文一揆
勝田郡の地を発端としたものはこの一揆だけである。
元文一揆とは、元文4年(1739)3月勝北郡北吉野村(現奈義町滝本)の高持百姓与三右衛門と藤九郎が発起人となり、勝北筋の村人が決起して、庄屋代官手代の説得を刎ね返し、6日間にわたって荒れ狂い、遂に津山藩主松平公の藩兵が鉄砲を撃ってこれを鎮圧した非人騒動をいう。これはその年の2月、鳥取城下に起こった因伯騒動を目撃した、与三右衛門と藤九郎が、北吉野村に帰ってこのてんまつを物語り、雷同した村人が蜂起した百姓一揆である。この騒動は北吉野平吉が決起文を書いたが、その理由に、幕府が年貢米を三割増徴しようとしたことに反対して、強訴の集団行動に訴えると書いている。
これについて東作誌所載では、
元文4年己未2月北吉野村藤九郎与三右衛等張本として百姓等535人村数13邑徒党して非人乞食に出て押て物を乞ふ、是に依って頗る騒動に及ぶ其事実左の如し
と書き起し、与三右衛門と藤九郎が、鳥取騒動で非人の群れに加わり乱行を働き、帰国して村人を煽動して一揆を起したいきさつを述べ、3月2日荒内村の庄屋伝右衛門方を襲い、上町川、広岡、西原村などへ、徒党を組んで押し寄せている。これらはいずれも押収物資を入れるため、菰俵を背負い、小綱をつなぎ合せて家屋土蔵に引っかけて、これを破壊している。
この騒動で、張本人の与三右衛門と藤九郎は死罪となり、天狗状を書いた平吉は叩き払い、天狗状に署名した北野村次兵衛と近藤村勘兵衛は生国隣国御構い追放、残る首謀者たちは、生国追放となり、天狗状を押へおき、下町代官所へこれを差出した広戸市場村庄屋与兵衛は、大阪奉行所から名字帯刀其身一代白銀10枚を褒美としてうけた。また暴徒鎮圧に奔走した広岡村庄屋又左衛門、荒内村庄屋伝右衛門は銀10枚ずつの褒賞をうけている。
当時この地方は、幕府が所領を直轄した、いわゆる「天領」の土地であり、代官所は備中笠岡と吉野郡下町(英田郡大原町)にあり、代官は笠岡に居住して、下町代官所を兼務していた。
勝北太平記によれば、久本村四郎右衛門が書いた元文の非人騒動が、15章にわけて発端から終末までを記述してある。これを嘉永3、戌春之とあるが、全抄を北吉野史に記載されている。
当町関係としては、4日に荒内村伝右衛門方へ押寄せる時、其勢力昨日に倍し1200余人なりしが、然る所へ御役人中御評議の上、12人の庄屋へ取り鎮めるよう仰付けられた。その中に、勝北郡の内、余野村喜久郎、久賀村重右ヱ門の名前が見えている、依て右12人の庄屋が、4日己の刻荒内へ発向した。然るに仲々鎮まらなかった。12人の庄屋共、広岡村文右ヱ門宅へ退き、追々騒動人共数度あばれたる故、力に及ばず、米一升五合ずつ渡したれば荒内村をば引退き帰る。とあり、勝北太平記は元文騒動についてなお
大阪にて賞罰被仰付事
騒動之儀17ヶ村之事
与三右衛門、藤九郎最後之事
久本四郎右ヱ門より市場村与兵衛へ書状渡せし事
津山御加勢行列之事
までを加えて、詳細に記述している。
前後5日間に及んだという非人騒動は、20数件を算える作州の百姓一揆のうちで、最良の記録の一つであり、出動した人員が一時は最高3000人にも達し、横仙筋の村々が挙げてこの騒ぎに巻きこまれたが、附和雷同した大群衆が雪崩れをうって殺到したものの、これまで各地の一揆に起りがちだった殺人、焼打ち、破壊などの極悪の暴挙はなく、ただ集団的に徒党を組んでは押しかけ、喊声をあげて示威運動を行い、米麦を貰い受ければ実力の行使は避けて、おとなしく退散している。これなど非人騒動としては比較的素直な行動と見てよく、一揆の中にも一つの秩序が保たれたものというべきであろう。
この一揆が、何をたたかい取ったかについては、残っている記録はない。何を要求して決起したという数字的な記録もない。ただ六公四民の重課に喘いだ農民が、たまたま因伯騒動に刺激をうけ、那岐山の裏と表で領主と幕府に対し、反抗の烽火を掲げたものであろう。武家政治という枠に組みこまれ、階級制度の最も酷しかった時代に、敢て決起せねばならなかった当時の農民の生活が、いかに苦しいものであったかを十分に推察することができる。
元文4年10月23日、勝北一帯を揺がせたこの一揆は、大阪町奉行稲垣淡路守役宅で裁断が行われ、それぞれ処刑や恩賞をうけて一段落した。(文:『勝田町誌』より抜粋)