狩衣清水(千貫清水・満願清水)の由来について

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狩衣清水の由来について               (上記写真:狩衣清水の内上手の満願清水)

 狩衣清水の由来は、鎌倉時代末期元弘二年(1332)前年の元弘の乱により、隠岐の島に配流となった後醍醐天皇が途中当地の泉(清水)の傍で休息、御召の狩衣をぐいび(グミ)の木に掛けて洗顔の上、清水を飲まれた際に、京への早期遷幸を祈願し、満願清水と名付けられた。そして、出立の折、天皇方の目印にと狩衣を置いて行かれた。
 その故事により、当地を狩衣と称し、下手の井戸を千貫清水(洗顔清水)、上手を満願清水として現在も愛飲されている。
 今般、地元狩衣自治会では、地域の歴史遺産として守り伝えていく為に、上手井戸に石碑を新設しました。(下手井戸は石碑、案内板有)
 この歴史ある狩衣清水が末永く後世伝承される様願うばかりである。また、地元中正小学校校歌の一節にも「狩衣清水湧くところ」と歌われ親しまれている。

<関係年表>    
後醍醐天皇  京都進発   元弘二年(1332)3月7日(旧暦)
 〃     院庄館到着   〃      3月17日
 〃     〃  出立   〃      3月21日
 〃     〃  早朝  児島高徳十字の詩の出来事有
 〃    ※狩衣清水<休息>       3月21日
 〃     醍醐桜~大井野~千屋~根雨(ルートは諸説有)
 〃     隠岐の島到着         4月2日
 〃      〃  脱出 元弘三年(1333)2月24日
 〃     京都遷幸   建武中興(新政)

<参考書籍> 太平記・作陽誌・久米町史 他  令和6年 狩衣自治会(津山市宮部下字狩衣)

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広域農道(県道)

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案内くださった、藪木政紀、黒田幸志さん

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津山市の市道                  上手の井戸の狩衣清水(満願清水)

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上手の井戸の狩衣清水(満願清水)(津山市宮部下字狩衣)

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津山市の市道                  下手の井戸の千貫清水(洗顔清水)の碑

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狩衣清水(かりぎぬしみず)下手の井戸の千貫清水(洗顔清水)の碑
※後醍醐天皇は、この清水を口にして「値千貫(あたいせんがん)」と申された。
作陽誌 久米郡北分大井庄山川部狩衣山の項に「在宮部下村路傍有小池号狩衣清水清冽可飲旱不殺霖不湧」とある。或は又<狩衣の千貫清水>と呼ぶこの湧水は、往時後醍醐帝、隠岐への配流の途次、嘉して「値千貫」と申されし由、伝ふ。(現地碑文より)

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町境の古道(赤線)この道を境に鏡野町と、津山市に分かれる。

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町境の古道(赤線)のすぐ上           下手の井戸の千貫清水(洗顔清水)は鏡野町

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下手の井戸を千貫清水(洗顔清水)        赤線(昔の国道)


・伝説:せんだい(千代)大字南方中の内にある地名
 後醍醐天皇が隠岐へ御遷幸の時、此の地で御乗りの御輿を洗われたので、此の地を「せんだい」と称するようになり、文字も「洗台」と書かれていたが、後に「千代」と書くようになった。とも、又、南方中村に「千躰仏」の跡があったが、仏像も仏堂もなくなって、今は「千躰」という地名だけが残っておる。というのである。(文:久米町史下巻より転載)