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取材記事内を検索ワード「立石岐」で検索した結果,7件の記事が見つかりました。

2024年4月7日の高野神社のさくら

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津山市二宮にある美作国二宮「高野神社」は森藩2代藩主長継が再建した神社です。
 2024年4月7日に高野神社で「春祭」が行われました。残念ながら催しには参加できなかったのですが、午後から参道のさくら並木を訪ねてきました。中でも私のお気に入りは、宇那提の森(ムクノキ)(市指定天然記念物)で、度々訪れてきました。長い年月佇んで何を見てきたのか問いたくなります。
海外の青年たちと2009年の秋祭りに参加)(二宮地区の情報も入れていりますのでご覧くださいね。

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イナママのルーツと森本慶三記念館

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 2019年12月11日(水)イナママが予てから行きたかった津山基督教図書館(現森本慶三記念館)に行って来ました。ママがよく話してくださった実母(明治41年3月2日生)の話の中に内村鑑三氏の話がでていたので「内村鑑三氏の事なら森本慶三記念館にいろんな展示物があったわよ。」というと「是非行きたい。」と言われていたので今日やっと実現しました。
 森本館長の案内で館に入るや否や「これ!この写真よ!あっ、寄贈者に兄の名前があるわ!きっと兄と母がここへ来たんだわ~!」と驚いた様子のママでした。
「新見の醤油屋(現カツマル 醤油)の娘だった母が、高梁の順正女学校から東京の薬剤師の学校へ行っている頃、内村鑑三を知り熱心な信者になったそうなんよ。その時代の写真を母が大切に持っていたのをよく覚えている。この写真がそうなんよ。」ママは感激して「胸のつかえがスーっととれたようだわぁ~。」と感慨深げでした。

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仁木永祐先生顕彰碑と郷校籾山黌跡

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 幕末~明治時代の医師・教育者・地方政治家として知られる仁木永祐は、東北条郡下津川村(今の津山市加茂町下津川)の庄屋豊田伊兵衛の四男として一八三〇年(文政十三)二月八日に生まれた。
 一八四三年(天保十四)、津山藩儒稲垣雪洞に入門、のち永田半眉にも師事。一八四六年(弘化三)、津山藩医村山春庵に入門し漢方と外科を修める。一八四八年(嘉永元)、東南条郡籾山村(今の津山市籾保)の医師仁木隆助の長女「たけ」と結婚、同年江戸に遊学し昌谷精渓に漢学を、また津山藩医(江戸詰)箕作阮甫や宇田川興斎に蘭学を学んだ。
 一八五〇年(嘉永三)、妻「たけ」が男子出生後母子共に没したため、翌年、分家仁木梅太郎の二女「佳津」を娶り、隆助の養子となり家業を継ぐ。医業を助けるかたわら、津山藩儒大村桐陽(斐夫)に入門、またペリーが浦賀に来航した一八五三年(嘉永六)には上坂して、後藤松陰のもとで漢学を修めた。

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立石家(立石岐について)

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自由民権と産業振興で活躍した立石岐 ~作州発展につくした時代の先覚者~
 幕末から明治時代のはじめにかけては、開国の影響と新政府による近代化への改革で、世の中が大きく変わりつつありました。そのころ作州(美作地域)で、近代産業を発展させようと立ち上がったのは、豪農といわれる人たちでした。明治11年(1878)、立石岐、中島衛、内田饒穂、安黒基たちが、養蚕・製糸業をすすめようと「共之社」を結成しました。さらに彼らは、岡山県議会議員となり、自由民権運動を積極的にすすめました。
 彼らの運動は「豪農民権」といわれていますが、その中心となって活躍したのは、立石岐でした。岐は、国会が開設されると、最初の議員となりました。その後も、中国鉄道の建設や学校教育の推進、キリスト教の伝導などで活躍し、作州の産業・文化の発展に大きな業績を残しました。

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立石家のさくらの咲くころ(二宮)

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2016年4月6日の立石家のさくらの咲くころに立ち寄ってみました。(私有地なの要注意願います。)
 この立石家の敷地内に咲く花々は四季折々で美しく道行く人々を和ませます。花が咲くころでは、遠くから眺めるだけでも素敵ですね。(立石家の過去の記事梅の花の咲くころ秋のコンサート)美和山古墳群

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2014年3月 立石家の梅の花

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2014年3月17日~24日まで、とっても綺麗な立石家の梅の花を楽しみました。

毎年、梅の花が散ってから気が付き今年こそはと気にしていたら綺麗な梅の花に出会えました。この立石岐さんはくらしを良くする為には、政治を変え、人民の国会を開くしかない」と国会開設請願の署名運動をしたり、衆議院議員を三期務めた津山の人です。(前回の取材はこちら)(立石岐ゆかりの津山協会)

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津山教会は明治(1904)に建てられた建物です。

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(創立前史)

1879年9月、金森通倫は、同志社を卒業し、岡山伝道に専心することを決心して、岡山へ来た。ベリー等と共に県下に伝道を開始、津山にも伝道を拡大した。

(創立期)

1890年5月11日、美作国西北条郡津山町(津山町発足)大字美濃人町に津山教会を会員63名で創立。同7月には、貧民救助の活動として、裁縫を教会でする。

その後、1896年8月13日に美濃職人町より京町へ教会堂を移す。1902年から立石岐の名前も出てくる。1903年2月1日には、アメリカ大統領ルーズベルトより共助会に手紙が届く。ホワイト宣教師より伝達。同年9月、田町で教会堂の新築に着手。1904年5月24日、教会堂新築落成し、献堂式を行う。これが現在の会堂と境内地である。1908年1月5日の教会員総会には、土居通憲、立石岐、池村与六郎、田村かの、竹内のぶ等の名前が見受けられる。(津山教会100周年記念誌より抜粋)

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