風月軒
衆楽園は、江戸時代初期に津山藩主・森家によって築造された回遊式の庭園です。元禄11年(1698)に松平家が 藩主となって以後幕末までは、家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の隠居所の庭園として使われ、明治3年(1870)に 「衆楽園」として命名されました。
衆楽園は津山城の北側(津山市山北)に位置しており、庭園は南北に長い敷地で、大半を池が占めています。別邸跡の古い建物群は現存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒ほか)が建っています。
衆楽園は、江戸時代初期に津山藩主・森家によって築造された回遊式の庭園です。元禄11年(1698)に松平家が 藩主となって以後幕末までは、家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の隠居所の庭園として使われ、明治3年(1870)に 「衆楽園」として命名されました。
衆楽園は津山城の北側(津山市山北)に位置しており、庭園は南北に長い敷地で、大半を池が占めています。別邸跡の古い建物群は現存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒ほか)が建っています。
曲水の宴《動画1》《竹内津山観光協会長挨拶》《キャンベルさんのお話》《動画2》
流觴曲水ともいう。「觴」とは盃のこと。陰暦の3月上巳の日や3月3日に開催され、緩やかに蛇行しながら流れる水の岸辺に座して、流れ来る盃が自分の前に到達するまでに詩歌を詠ずるという風流な行事で、古代中国にその発祥があるという。水辺で行われていた禊ぎに関連する行事から、遊興の催事へと変化したといわれる。
中国の事例では「衆楽雅藻」の序文でも「永和之蘭亭」と称されている如く、永和9年(353)3月3日に開催された曲水宴が、後に王羲之の書作品「蘭亭序」により広く知られることになった。
日本にも古くから伝わっていたらしく『日本書紀』や『万葉集』にも曲水の宴を行ったことが記載されている。
明治3年(1870)に衆楽園で行われた曲水の宴では、詩を成した者は盃を取り、できなければ飲めないという定めであったが、流水には盃だけではなく、こなもちや酒の肴も流されており、鴎の群れが波に揺れる様であり、また落ち葉が流れ下っていく様であったと描写されている。(文:公益社団法人津山市観光協会チラシより抜粋)
鶴山八幡宮は 往古より鶴山頂上にありましたが、慶長8年森忠政公美作国々主に任ぜられ、この山に築城するに当たり、先ず八幡宮を一旦久米郡除山(現在作陽高校のある覗 山)に遷座されましたが、慶長15年藩主森忠政公霊夢により、府城の西北に当たる現在の地、山北八子不知夜山(いざやま)に再び遷座、寛文9年二代藩主森 長継公荘麗極彩色の社殿を建立(現在の社殿がこれで国の重要文化財)社領50石を寄進、寛永12年社領30石を加増、元禄元年に三代長成公又社領30石加 増し崇敬するなど森家代々ゆかりの深い神社です。現在津山地方北部の大土産神です。(2008年取材・2011年取材)
当初、森家の重臣赤座主殿の屋敷神として城内にあったが、明治5年(1872)2月に、城内から京町に移され、現在は町内神として杷られている。
河川や海上安全を祈念する金毘羅神社は、吉井川の高瀬舟運行関係に従事した人々の信仰を集め、特に「金」の文字が付くことから商売繁盛の神としても信仰されている。
2015年4月14日取材
長徳(995)のころより薬師如来を安置して、神徳寺と称す。
寛文(1661)のはじめ津山藩二代目森 長継黄檗の木庵禅師の高弟鉄堂に帰依し本光寺と改名
東一宮中村七十五石六升六合、西一宮湯谷村七十四石九斗二升四合、計百五十石を禄高として再興、森家菩提寺となる。
元禄十年、森家改易と共に一時寺領退転となるも、森家の族、播州乃井野の城主、森對馬守長俊、同備中新見の城主、関備前守長治、同赤穂加里屋の城主、森和泉守長直等の諸侯より茶湯料として各高十石宛寄附あり。
摩尼山高福寺は、京都市花園の妙心寺を本山とし、大日如来を本尊とする臨済宗寺院です。
初代津山城主忠政が、美作18万6500石の領主として、慶長八年(1603)に入封し、慶長九年(1604)に、津山神戸にあった安国寺を津山小田中の地に移して、名称を本源寺に改め、天倫玄節大禅師を開山として森家の菩提寺と定めた。
この神社は嘉永元年初春に西今町の人山手屋江原市右衛門が高倉稲荷大明神として建立し祭祀したが、故あって嘉永3年に徳守神社の境内末社として遷祀されました。しかし翌年再び此の地に祠を建て新高倉稲荷神社と号し西今町の守護神として150年の長きにわたり祭祀されています。 例祭...夏祭り 7月28日 秋祭り 10月28日
お花の宮は、正式には「お花善神」です。むかし、勝間田(今の勝央町)にお花という美しい娘があり、津山藩森家の重臣原十兵衛の屋敷に行儀見習いの奉公にあがりました。
利発で性格がよく、十兵衛に信頼され寵愛されて赤ちゃんのお守りを命ぜられていましたが、ある時、ふと目を離した隙に赤児が縁から落ち、踏み石に頭をうって死んでしまいました。
お花の過失はどうしようもなく不運を嘆き悲しんだのですが、愛児を失った奥方の怒りは激しくお花を責めに責めて、とうとうなぶり殺してしまいました。
津山藩医・久原家
久原家に残された「先祖書」によると、久原家の始祖は森家の家臣熊野角右衛門であると伝えられています。角右衛門はその後、久原宗清良政と名を改めました。
医家久原家の初代は宗清の跡を継いだ甫雲良賢です。良賢は1677(延宝5)年に幕府の医官であった西玄甫から「阿蘭陀流外科医術免許状」を授けられ、その後1708(宝永5)年に津山藩に藩医として、30人扶持で召抱えられ、椿高下に屋敷を与えられました。良賢以後、久原家は9代洪哉まで代々津山藩医を勤めることになります。
津山市下田邑に「従此千年寺道」の石柱がある。この石柱は、津山市一宮にある「瑠璃山 本光寺」と下田邑にある「長継山千年寺」(長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。)を結んだものでしょうか?※長継公は津山藩で最も長く藩を統治した人物で、森家の盛衰を見届けた唯一の人物でもある。長継は初代藩主・森忠政公の外孫で、姓は関氏といい、森家の重臣だった。(2014年5月6日取材)