津山市加茂の昭和の風景
加茂の原田家よりお借りしたアルバムの中から。
昭和18年~19年夏、婦人会共同作業三椏(みつまた)の枝の皮をむいているところ。和紙の供出か?背景の山は金刀比羅神社のある山。(平井譲写)
加茂の原田家よりお借りしたアルバムの中から。
昭和18年~19年夏、婦人会共同作業三椏(みつまた)の枝の皮をむいているところ。和紙の供出か?背景の山は金刀比羅神社のある山。(平井譲写)
2021年7月17日の土曜日、津山市小田中にある白加美神社で夏祭りがありました。
町内会の氏子の皆さんが久しぶりに集まり話をしたり、子どもたちの笑顔もみえ、楽しい雰囲気でした。コロナ禍の中、座るのも家族単位です。町内会でも滅多に会うこともなくなっている昨今ですが、みんなと話が出来る事っていいなぁ~とつくづく思いました。早く新型コロナウイルス感染が終息することを祈って。
2021年6月20日小雨が降っている中でしたが、作楽神社へ行ってきました。
久し振りの訪問となりましたが、お参りした後ふと見ると、なんとなんと可愛いお花がひっそりと咲いていたので思わず撮ってきました。ただし、お花の名前がよくわからないのが残念です。次回は花アプリを入れて訪問してみたいと思います。
津山市鳥瞰図(つやましちょうかんず)吉田初三郎 館蔵
この絵図は、2021年4月1日~5月9日まで津山郷土博物館3階展示室で《春季企画展》古い写真で見る津山の鉄道展の会場に展示してあったもので、絵で見ると歴史がよくわかるのでご紹介してみます。(ガラス越しなのでぼやけていますがご容赦を。)
鶴山公園と津山駅が中心に描かれ、鉄道沿線の観光名所を描いた鳥瞰図。博覧会開催に際し、この鳥瞰図を利用して折り込み式の絵葉書が協賛会により作成されている。津山駅の近くには、昭和11年(1936)に建設された扇形機関車庫も描かれている。(文:郷土博物館展示案内より)(2021年4月16日撮影)
間山神社(はしたやま) 旧名 山王宮 間山字そでもぎ
祭神は大山咋命。
沿革:一條天皇の御代(987)、書写山の性空上人によって創建と伝えられる。三星城合戦時高福寺とともに焼失するも、御神体は類焼をまぬがれたといわれる、その後再建され軒札多数が現存している。なお元禄15年(1702)上相村庄屋半兵衛は次のごとく記している。
「上相八幡、中尾大明神、間山山王宮の三社のうち、山王宮は小中志女大夫の講中であったが、近年黒土西山善大夫の講中となる、先年より惣社山王宮、八幡宮は間山孫兵衛が神役を仕り・・・」
氏子は曽井の一部とまやあ居住計15軒
元禄七年 神主 西山佐進、藤原明永書之
軒札 奉建さくしゅう湘南軍トヨクニこれ床間山山王宮一宇成就
九月吉日 村中十二氏子息災延命牛馬事ヲ守処
(文:『勝央町史』より転載)(2013年12月23日撮影)
鳥羽山萬福寺 天台宗 植月北鳥羽野
境内に観音堂(慶長3年観音寺住職円慶中輿)、大日堂(宇堂の上)、地蔵堂、阿弥陀堂、弁財天祠、薬師堂があった。明治22年11月出火し、今は寺は無く観音堂、大日堂その他が再建されている。
萬福寺縁起古文に、往古役行者小角が回国途中霊験によりこの地に弁財天を鎮座せしとされ、また観世音菩薩の由来は、京都鳥羽に置いて行基が菩薩六尊を新造中に、美作のこの地に飛行し立座した霊夢を、聖武帝と行基が同時に御告があった・・神亀3年(726)創建したと記録され、また再度の火災により大破のみぎり、京都鳥家の長者霊夢を見て、この地に下り再興した。森候の祈願所でもあり、馬継所の桜の馬場の伝承もある。
観音堂・・・美作三十三観音霊場六番札所、本尊は聖観音立像(148㌢)行基作、足裏に義経と記され、源義経の守り本尊として伝承される。
萬福寺は元亀元年(1570)慈眼大師により再興されたが、寛文の頃に無住となり観音堂の兼務となった、大日堂の見正院に坊籍を許可でず、宇堂は荒廃し、火災でついに廃寺となる。(文:『勝央町誌』より転載)(2021年3月15日・2020年9月10日・2012年9月3日撮影)
社説 旧郷社 日吉神社
本社創立の年代は不詳、社伝並びに古老の口碑によれば天平9年11月、従五位下美作守阿部帯磨より受継ぎをなせる、美作守大伴兄磨が、近江國阪本鎮座の日吉神社より天平10年4月、分霊を奉祀し、翌11年3月7日、御遷座勅許を得て荒田七反歩を寄せ、植月郷総鎮守となしたりとも、或は、内田菅磨、が近江國日吉神社を、旧社地植月中河内山王谷に奉祀し、永正9年、宮山城主植月彦次郎この地に遷し奉ると云う。
平成6年3月本殿・幣殿・拝殿共に著しく老朽せしを、平成の御大典記念として改築なせるものなり
祭神 大山咋命・大巳貴命・豊受大神・味須岐高彦根命・少彦名命・猿田彦命
境内社 稲荷神社・厳島神社(文:現地案内板より)(2020年9月10日撮影)
2021年2月28日に真賀温泉に何度か来ている友人に案内を頼んで出かけてきました。
旭川沿い国道313号から階段を少し上がった所にある風情のある木造共同浴場です。付近の温泉宿の湯元となっており、天然の岩風呂がある湯治場として古くから知られています。天然の岩風呂がある湯治場として古くから知られています
「この浴槽はとにかく狭く、日本一狭い混浴浴槽」と言われているそうです。
山田方谷などの偉人達も療養に訪れている。竹筒から新湯が湧き出て注がれています。38度のぬるすべの湯に浸かると、なかなか湯船から出ることができなくなります。岩盤に直接穴を空け、差し込んだ竹筒から流れ出る温泉は、風情満点です。療養温泉としても有名で全国療養温泉番付(昭和55年発行暁教育図書(株))では、西の前頭3枚目にランクされています。
2021年4月2日の白加美神社の夜桜ライトアップの様子です。
市内でいち早く夜桜のライトアップをしたのは小田中にある白加美神社の参道のさくらです。毎年、奇麗に咲いてくれる桜の木も老木ですが今年も沢山のさくらの花を咲かせてくれました。
この神社は約1220年前、人皇第44代元正天皇(奈良時代)の御宇当国戸川の宿の北に現在地美しい五色の虹が輝き渡った。苫田縣主通憲が驚いて里人にその所を掘らしたところ数尺も掘らないうちに神代の霊物と思われる、とても美しい璽(たま)が出た。その時忽然としてひとりの老翁が現われ告げるには我はこの月輪田原に居る神である。・・・(続きは、ここで)
山田方谷(1805~1877)は、明治3(1870)年、長瀬(高梁市中井町)から亡き母のふるさとである小阪部(新見市大佐)へ住居を移し、小阪部塾を開きました。新しい時代の教育に情熱を捧げるとともに、祖父母の墓を守ったのです。
小阪部での暮らしは、幕末の動乱の時代とは違い、穏やかなものであったようです。その生活の中で目に映る景色や自分の気持ちを詠んでいます。明治10年6月26日、73歳を一期として、小阪部塾で家族らに見守られ静かに永眠しました。
ここ新見市大佐は、山田方谷先生終焉の地であります。(文:現地記念碑より)