つながる「出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会 万能乢コース(1)

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 はじめに
 出雲街道とは、播磨の国、姫路に端を発し、出雲の国、松江に至る約215Kmの古道を言う。また、一説によれば松江の先、出雲大社とも言われている。
 大和朝廷が、武力で全国を平定としたのに対し、出雲は神話に登場するが如く、平和裡に国譲りが行われ、朝廷より優遇され、鉄の産出も始まり、街道は繁栄してきました。
 街道は人、物、文化を運ぶ役目を果たし、その重要性は五街道(東海・中仙・甲州・日光・奥洲)に匹敵し、同等の街道として発展してきました。
 その後の街道は時代と共に、道筋は変遷、消失を繰り返していますが、現存している道で2コース有る場合は、合理性が高いか、最も古い道を採用しています。
 今回の「つながる出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会は、特別企画 第4弾として、万能乢より江見までを、「勝間田宿の会」を主催者にして、「土居宿を後世にのこす会」と「勝山宿の会」とで共催して開催いたします。また、万能乢コースと別に、古代より開けた「杉坂峠コース」がありますが、このコースは又の機会に譲り、参勤交代が始まった江戸中期(慶長9年頃)より、土居宿が設置され「万能乢コース」が開発されたので、今回は同コースを歩きます。(文:特別企画(第4弾)出雲街道(Ⅱ)を歩こう会 主催:出雲街道 勝間田宿の会、共催:土居宿を後世にのこす会・勝山宿の会案内より)

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令和3年11月21日撮影

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安東鐡馬の墓                  四つ塚

★安東鐡馬の墓 作東小学校の手前を右に入り、四つ塚の志士と同様に、勤王の志士で別行動の安東鐡馬の墓がある。京都の池田屋事件で新撰組と切り合った経験の持主です。元治元年(1864)蛤御門の変で、長州軍の一人として参加し戦死した。京都・東山霊山神社に、維新の同志と祀られている。

★四つ塚 幕末文久3年(1863)~元治2年(1865)にかけて、作州路を遊説し、尊王の同志を募っていた岡元太郎(岡山藩士)土井原応輔(土佐藩士)千屋金策、島波間の4名が活動資金を求めた家で、強盗と間違わられて、追っ手に追われ土居宿の西惣門まで逃げてきたが、最早これまでと元太郎は切腹し、応輔、波間は刺し違えて死亡、千屋は泉屋(宿屋)に入り自刀して果てた。遺書により真相が判明し、門尻河原に埋葬され、四つ塚様と呼ばれた。維新後、明治政府より正五位を賜り、現在の位置に改葬された。

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万能乢へ急ぐ

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JR踏切付近                   万能乢へ急ぐ

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梅ヶ塚                     万能乢の頂上を望む

★梅ヶ塚 頂上より150m下った左手を少し入ると、木立に中に「梅ヶ塚」と刻まれた自然石がある。芭蕉の句碑で「梅がかにのつと火の出る山路かな」と詠んであり、寛政5年(1793)土居在住の妹尾有礎が、近隣の俳人に呼び掛け建立した。

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万能乢                     念仏供養塚

★万能乢(萬ノ乢) 今回は兵庫県側が、整備不良なので「作東小学校」付近でバスを降車し、万能乢までを往復して歩きます。乢の頂上は広場もあり、峠らしい雰囲気もあり、東側は兵庫県(播磨国)との境界で現在は佐用町となっています。頂上より下ってJR姫新線の踏み切りまでは、山道で昔の風情を楽しめます。

★念仏供養塚 乢の付近には供養塚があり、宝暦14年(1764)と刻まれ、静かに立っている。また、以前には地蔵堂もあったと記録に残っている。岡山県内の出雲街道の東口の始まりは、念仏供養塚からスタートする。

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念仏供養塚(JR踏切脇)             古い墓石群

★JR姫新線の踏切手前にも、念仏供養塚(1757)があり、旅人の安全を見守っている。ここを過ぎると、緩やかな下りとなり、土居宿の町並みが望見できる。

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土居宿(東総門跡)              脇本陣跡(亀井家)妹尾家の跡、JA土居支所敷地

★土居宿(東総門跡) 江戸中期までの出雲街道は杉阪峠が本道で、峠の頂上には関所跡が現存して、当時の足跡を見ることが出来る。万能乢コースが開設されたのは、江戸幕府が津山藩に命じ、参勤交代が始まった慶長8年(1603)頃より、街道の整備を行い、土居宿が開設され、大きな変化がもたらされた。土居の町並みに入ると、宿場町らしい雰囲気が感じれられ、東惣門より西惣門(距離6町29間)の間が当時の街の範囲と思われる。

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また、土居宿は交通の要衝として、本陣・脇本陣・高札場・惣門・宿屋・店屋等が整って賑わい、当時より道幅は8mもあって、余裕のある街道となっていた。

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大鳥居跡 付近には高札場跡、大鳥居跡、高札場跡などがある。

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宿場資料館(土居老人作業場)・楠(130年)

つながる「出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会 万能乢コース(2)へ続く