福力荒神様(福力)
2016年2月8日~2月10日の旧正月は安産・蝮除け・学業成就など願う参拝者が来られていましたまた、参道には多くの露店が立ち並んでいましたよ。今年は平日となり、人出は少ないかもと思いましたが、初日にもかかわらず駐車場も早々と満車となるところもありました。
御利益は、蝮除け・子授け・安産・家内安全・学業成就・交通安全・商売繁盛・良縁等 (由緒・沿革)(2016年2月8日撮影)
2016年2月8日~2月10日の旧正月は安産・蝮除け・学業成就など願う参拝者が来られていましたまた、参道には多くの露店が立ち並んでいましたよ。今年は平日となり、人出は少ないかもと思いましたが、初日にもかかわらず駐車場も早々と満車となるところもありました。
御利益は、蝮除け・子授け・安産・家内安全・学業成就・交通安全・商売繁盛・良縁等 (由緒・沿革)(2016年2月8日撮影)
雫の森と鉾立石の由来
雫の森は苫田の国府関係の祭神の史跡で祭政一致を旨とした古代神会を記念すべき意義ある旧蹟で平安の頃(西暦800年頃)此所に中山神社の離宮ができ、国司はここで中山神社を拝したと考えられる。天正中は中絶したが毎年秋9月9日が総社大祭には国府の祭官は神幸される中山神社の御神霊をここでお迎えして総社々前の客社に於いて奉弊したものである。
津山城(鶴山公園)は、春には千本の桜が咲き乱れ、西日本随一の桜の名所として多くの人が花見に訪れます。桜の季節は、ぼんぼりに浮かぶ夜桜の美しさは幻想的です。 また、新緑の頃の藤、秋の紅葉、雪景色など、四季を通じて訪れる人の目を楽しませてくれます。天守閣などの建物は明治7年に取り壊されましたが、 本丸、二の丸、三の丸の石積みは、高さが45mもあり昔日の面影を今に伝えています。そこで、往時を忍んで天守閣の特集をしてみました。『津山城の石垣についての取材はこちら』
『津山城(鶴山公園)の過去の取材はこちら』2015年4月2日津山城(鶴山公園)内の銅版を撮影(複製写真:弥生の里文化財センター許可済み)
出雲街道・坪井宿(江戸前期~)
坪井宿は江戸期の宿場町であり、津山から西へ約14㌔のところにある。現在は国道がこの町の北側を迂回しており、宿場町の面影を残す住宅地となっている。
大正末期ごろまでは、宿場町の中央には水路が引き込まれ、それに沿って柳などを植えた並木があり、西から東に流れる水路の両側にはそれぞれ幅約2間(約3.6㍍)の道があった。北側の道は出雲街道で旅籠などが並び、旅人などが通る道で、南側の道は里道といい、村人の利用する道であった。まち並みのつくりが麦飯の粒の形に似ていることから麦飯町とも呼ばれていた。中央に水路のある宿場町の定形であった。現在、水路は道路の南端に移され、並木もなくなったが、明治・大正期の木造厨子2階建てや、2階建て瓦葺きの民家が並んでいる。漆喰塗壁、腰板張り、虫籠窓、格子窓、出格子、ナマコ壁、防火用袖壁もかなり残っており、宿場町の風情が感じられる。町の中央近くには、陣屋跡や石造りの常夜灯がある。
諏訪神社を取材するにあたって、宮司の末裔である出雲井隼麻さんに古吉野村の歴史をお聞きしてきましたので紹介してみます。(明治24年4月石川秀助筆)
衆楽園は、江戸時代初期に津山藩主・森家によって築造された回遊式の庭園です。元禄11年(1698)に松平家が 藩主となって以後幕末までは、家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の隠居所の庭園として使われ、明治3年(1870)に 「衆楽園」として命名されました。
衆楽園は津山城の北側(津山市山北)に位置しており、庭園は南北に長い敷地で、大半を池が占めています。別邸跡の古い建物群は現存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒ほか)が建っています。
三宝荒神社は津山市高野本郷にある三宝荒神社ですが、町内の方にお聞きしたら、詳しい事は解らないそうですが、長老からは「どこの町内にも荒神様があり子どもを守ってくれる神様だ。」と聞かされていたとのことです。毎年11月第二日曜日に神主さんと町内の方が約100人程集まり、賑やかにお祭りをされるそうです。また、お正月にはご近所の方がお祀りされているそうです。(2015年1月25日取材)
津山城跡の石がアメーバ―のようで模様が面白いね!(津山城跡の過去取材)2014.11.21etc
国指定になっている津山城(鶴山公園)は石垣に囲まれていて、その石垣がカッコいい城跡なんです。
また、この石達の一つ一つの表情を見ていると可愛いとさえ思えてきました。森忠政が津山盆地のほぼ中央の鶴山に築いた平山城です。
自然地形を巧みにいかしながら、土木工事によってさらに要害堅固な城としました。鶴山の最高所に平地を広く取って本丸とし、これを取り囲むような形で山腹 に二の丸・三の丸を階段状に廻らせ、山の大半を石垣で覆い、南を大手(表)、北を搦手(裏)としました。南・西・北の山麓(内山下)は総曲輪として、その 外周を土塁・濠で固め、東側は直下を流れる宮川及び天然の断崖をそのまま防御線に取り込んでいます。さらには、南の吉井川とその支流である西の藺田川(い だがわ)を防備上の最前線として、その内側に城下町の主要部を形成しています。(文:津山城百聞録より)
2015年は、京都で山脇東洋が日本最初の人体解剖を行ってから260周年にあたります。この解剖の記録として『蔵志』が出版され、それまで信じられてきた「五臓六腑」図が否定されました。当時の医師たちは人体の内部を自分の目で確かめるため、各 地で解剖を行いました。『解体新書』翻訳のきっかけとなった、江戸小塚原の腑分けもその一環です。蘭学の発展に大きな役割を果たした解剖図、そして現代の 解剖図-メディカルイラストレーション-を一堂に展示することにより、江戸時代から現代へ繋がる医学の発展をご紹介します。(文:津山洋学資料館HPより抜粋)2015年9月5日取材
2015年9月5日(土)~10月4日(日)津山洋学資料館 9:00~17:00(入館は16:30まで)
油木北の岩滝様も巨岩崇拝に基づく神様で、此の地方は、弥生時代の集落址・土拡墓群、数々の古墳のあることからして、弥生時代から古墳時代、奈良平安時代へと、人里の栄えた地域で、小範囲の地域に巨岩の何個もが集まっている岩滝様のあたりは、磐境とか磐座と見立てるに恰好の条件を備えていて、神宿る聖域として祭祀が行われており、時代が降って、瀬織津姫(せおりつひめ)の神を祭神とする岩滝様が祀られるようになった。