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取材記事内を検索ワード「森忠政」で検索した結果,144件の記事が見つかりました。

本源寺 御霊屋(津山市小田中)

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本源寺 御霊屋(おたまや) 国指定重要文化財 (2013年6月17日、7月3日取材)

 御霊屋は寛永16年(1639年)の建築で、桁行3間(8.2m)、梁間3間(8.2m)、屋根は宝形造、銅板葺である。正面に唐破風屋根の向拝を付け、柱頭部に金襴巻状の地紋彫、頭貫に亀甲模様の地紋彫を施し、破風や垂木は精緻な彫刻で飾る。


☆本堂西の御霊屋(おたまや)は、忠政公逝去の5年後の寛永16年(1639)に、二代長継公の建立。忠政公をはじめ二代長継、三代長武、四代長成、父可成、兄長可、乱丸、坊丸、力丸、忠政公奥方、子息、息女など、森家と関家と松平家、全28基の御霊碑を安置しています。(本源寺は津山城の真西にあります。)

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本源寺で森忠政公380年忌法要が行われました。

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津山市小田中にある東海山 本源寺の

本堂、庫裏、御霊屋、霊屋表門、中門が国指定重要文化財


  江戸時代 前期までに建てられた津山藩森家菩提寺の東海山 本源寺が新たに国の重要文化財に指定されることになり、2013年7月1日(月)~7日(日) 午前10時~午後5時まで国指定重要文化財記念として一般公開されました。また、7月7日(日)は森 忠政公380年忌法要が行われました。(2013年7月3日・7日取材)

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本源寺 本堂(津山市小田中)

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▲東海山 本源禅寺 本堂 国指定重要文化財(2013年6月17日、7月3日取材)

 本源寺は、津山市街西部に位置する、臨済宗妙心寺派の寺院で、津山藩主森家の菩提寺である。境内中央に本堂が建ち、東に庫裏が並ぶ。本堂の北西が森家の墓所で、霊屋と霊屋表門を配する。
 本堂は慶長12年(1607年)に上棟され、桁行25.3m、梁間18.9mの方丈型本堂で、屋根は入母屋造、桟瓦葺とする。現在花頭窓が設けられている正面などは改変されているが、柱や梁組などの主要構造は当初の様子をよくとどめている。

詳しくは津山瓦版の過去取材の様子でご覧ください。

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法然上人 生誕の地 誕生寺(久米南町)

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誕生寺由来 (2012年11月18日取材)

 誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人降誕の聖地、建久四年(1193)法力房蓮生(熊谷直実)が、師法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたもの、すなわち誕生寺である本堂須弥壇の位置は上人誕生の室のあった所。
 爾来九百年の星霜を経て法灯絶えることなく全浄土教徒の魂の故郷と敬仰されている法然上人(圓光大師)二十五霊場の第一番。
 境内には、誕生椋、片目川、産湯の井戸など、永き歴史を物語るものがある。(資料提供:美作之国 誕生寺)

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岩間山 本山寺(美咲町)法然上人ゆかりの地

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天台宗 岩間山本山寺(いわまさんほんざんじ)

 大宝元年(701)頼観上人の創建で、本尊は観世音菩薩である。当初は南方の山頂に在ったが、天永元年(1110)現在地に移り、大いに発展して百廿十坊と言われた。
古来、山岳仏教の道場として、又、庶民信仰の霊地として栄えた。長承元年(1132)稲岡ノ庄(誕生寺)の漆間時国公夫妻が参詣、祈願して生まれたのが、後の浄土宗の宗祖と仰がれる法然上人(源空)である。降って江戸時代になると、津山藩の祈願所として、尊ばれ、又、森候の時代には、美作の天台宗の触れ頭であった。山内寺院のうち、遍照院・仏性院・梅元院の三院が院内頭であったが、今では皆、合併して本坊一ヶ寺となった。現在の境内地は四千二百坪、十余棟の堂塔伽藍は、昔に変らぬ面影を伝えている。
国指定文化財、本堂(1350)、三重塔(1652)、宝筐印塔(1335)
県指定文化財、常行堂(1519)、御霊屋(1652)、仁王門(1686)、長屋(1845)、宝筐印塔(1399)、鬼面(1362)、六角型舎利塔(1344)、絹本著色両界曼荼羅図二幅(鎌倉末期)
美咲町教育委員会 (案内板より)

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片金山明王院 金龍寺(津山市加茂町室尾)

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片金山明王院 金龍寺縁記
 当寺は、真言宗醍醐派に所属し、片金山明王院金龍寺と称し「千手十一面の二相両具をそなえた観世音菩薩、千手観世音菩薩」を本尊とし室町時代の文安5年(1448)行基菩薩の法系孫と言われる恵秀法印の開基になり、当初は、裏山、現在の寺山の中腹(当青柳の庄時代交通の要路であったと言われる)にあり七堂伽藍をかまえそなえた寺院であったが、天文21年3月(1552)火災にかかり、ことごとく焼失し、同年8月寺地を現在の処に移し、開基より三代目、数円法印再建す
 その後、元和元年(1615)津山城主、森忠政公の命により津山留錫の玉林院法印智観の資子、宥智東蔵坊法印、これを継承し、室尾城主、河端丹後守公の祈願寺として、寺領250石を賜り周辺村(現在の部落)わ檀家とし、尚神仏習合寺院として現在の三宝神社の別当を勤め、別寺名を実安山神宮寺とも称し、当山派系(真言宗醍醐三宝院末寺)の修験道寺院をも加えた密教寺院であった。
 然し、明治元年(1868)神仏分離令に加えて排仏毀釈に会い解体せられ、その上、明治5年(1872)修験道廃止令に依り衰退し,本宗(密教系寺院)の寺院の姿の一部を止めるに至り現在に至っている。
 然し、今当寺に相承の法流は、真言密教の中核、小野三宝院流、及び修験道の大峯山法、恵印三未耶法流である。
玉林院智観法印とは、大和国大峯山直轄の密教寺院であり、勅願所である内山永久寺(明治初年の排仏毀釈により廃寺)の正大先達頭として諸国を歴訪し、津山に留杖し森公の相談役として家老待遇で迎えられていた。2012.9.20取材(文:案内板より)

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2012年 美作総社宮の秋祭りがありました。

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2012年10月15日、美作総社宮の秋祭りが執り行われました。

 宮の略記:今を遡ること千四百年以上前の事ですが、欽明天皇の御代二十五年、大己貴命(オナムチノミコト=大国主命)を御主祭神として御祀りされたのがそもそもの始まりでございます。当初は、現在地よりも西の神楽尾公園の下あたりに祀られていたらしく、現在の場所にお遷しされたのは、元明天皇の御代、和銅六年に備前の国より美作の国が別れ、この地に国府が置かれ、相殿(アイドノ・同じ社殿内)に一宮(中山神社)の神と二宮(高野神社)の神を始めとして、美作の国九百十二社の神を合祀(ゴウシ)され、始めて総社宮と言う御社名が付けられたそうです。
 古くは国司等が祭典ごとに参列し、美作の国の総鎮守神として、地域内はもとより、国中の人々がこぞって参拝していたとのことです。
 その後、永禄五年(四百三十四年前)には、毛利元就公が今の御本殿の原型を造営され、社領をも寄進されました。元和八年には、森忠政公が、また明暦三年には森長継公が大修理を行いました。
 時は過ぎ、明治の時代になり、全国の総社の中で、当社のみが国宝に指定されました。

 指定の理由は、建築様式、彫刻などは言うまでもありませんが、御本殿本柱十六本の根元に、約一寸二・三分の根空が十文字に刻んであることです。理学博士・川村清一氏の発見に関わるもので、当時の大工が防虫に意を注いで刻んだものであります。全国の神社では、日光東照宮、大和談山神社の山門と当総社宮本殿の三ヶ所に在るのみだそうです。法改正により現在は国重要文化財に指定されていますが、国の宝、美作の地区の宝・氏子の宝であります。(文:美作総社宮造営記念誌より抜粋)前回の取材はこちら

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八出天満宮保存修理事業完成奉祝祭

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 2012年6月17日(日)八出天満宮保存修理事業完成奉祝祭の様子です。
 学問の神様である菅原道真公は「天神様」として親しまれ、多くの人々に崇敬され、全国各地にお祀りされています。
 八出天満宮は、道真公が美作の国司であった父の病の見舞いに来られてこの地に八日留まり出立されたとき、里人が別れを惜しみ、徳を慕って祠を建てお祀りしたのが起源と伝えられている古社です。
 現在の御本殿は寛永14年(1637年)に建立され、氏子の方が維持管理し、これまで幾度も修理されてきましたが、近年老朽化が進み、特に鉄板で覆っている御本殿の屋根については、昭和27年の改修から60年が経過し、傷みがますますひどくなっていました。又、御本殿の瑞垣についてもブロックで囲み神社としての景観にそぐわない状態でした。
 平成15年、建立時の棟札が見つかり、御本殿と棟札等が津山市重要文化財に指定され、これを機に修復の機運が高まり、平成20年、氏子の方によって、「八出天満宮保存修理事業奉賛会」が結成され、御本殿、瑞垣等大改修をおこなうため募金活動が始まりました。
 平成23年になって国及び津山市から文化財修復補助金の交付が決定され、早速、念願であった修復工事に取りかかることができ、この度、めでたく竣工いたしました。
 最後になりましたが、事業実施にあたってご指導、ご尽力いただいた津山市教育委員会、氏子崇敬者、さらに工事関係者皆様に深く感謝申しあげます。
                                                                  平成24年3月吉日
                                                                      八出天満宮  宮司 石田博之
2009年の取材記事
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田熊 南北朝動乱時代の山城 下木の岩黒城址

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 ▲田熊(たのくま)南北朝動乱時代の山城 下木(したぎ)の岩黒城址(いわくろじょうし)
 広戸川を渡り、下木の集落から東の山手に上ると、高い所に公会堂がある。この公会堂の上の平坦な丘陵地が、岩黒城址(いわくろじょうし)と言われている。
 今は、全く畠となっているが、ここからは、田熊や野田(勝北)の水田地帯や日本原高原の景色が一望できる。一方、田熊の水田地帯から城址を眺めると、平地に突き出た山裾の丘陵を利用した山城であることがよく分かる。
岩黒城址については、美作古城史(三)に次の記述がある。
 「津山市田熊(元勝田郡広野村)に岩黒城址があり。井上蔵人(いのうえくらんど)の居跡と伝えられ、東作誌には、古城 岩黒城 城主井上氏今は百姓持林となる。堀切の跡纔(さい=わずかに)見ゆ 少し切りならしたる跡ある而巳(のみ)なり 云々と載せてあり、古城麓に現存する井上氏がこの城の関係者として伝えられている。」(2012.1.9取材)

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曹洞宗 澤龍山 少林寺

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曹洞宗  圓通閣 澤龍山少林寺(美作三十三観音十一番札所)(2011.5.4)

開創 1525年(大永5年)
本寺 久米郡美咲町 夢中山幻住寺
開山 大網愚溪大和尚(幻住寺6世)
当山は、小森山圓福寺(中北上1319番地)と称していたが、後醍醐天皇が隠岐島を脱出、船上山の名和長年に身を寄せられた1333年頃兵火によって焼失。
その後180年程そのままになっていたが、1516(永正13)年11月に幻住寺六世大網愚溪大和尚が、当時の岩谷城主大河原弾正の懇請を容れて、後に少林寺末寺となる観音寺となった地(中北上1161番地)に小庵を建立し、山号を山形臥龍に似たるを以て澤龍山とし、1525(大永5)年に「澤龍山小林庵」と称し開堂。
1597(慶長2)年、大河原弾正の三男智麟首座小林修理の修繕を得て、庵から寺に改称「小林寺」とした。
1767(明和4)年頃の中北上村は、相州小田原の大久保藩の領地で西川(現在の美咲町)代官所を設けて領内を支配していた。当山七世物外璿山大和尚が、その西川代官高橋文右衛門の賛助に依り、50余ヶ村民の出役を得て現地に移転し寺名を小から少に改め「少林寺」とした。
本堂・開山堂は、1993(平成5)年再建。本堂内には当山に金龍銀龍が舞う幅3・3mの見事な壁画が一対あり、津山市・山形弘画伯の作品である。
本尊「十一面観世音菩薩」は、岩谷城を築城した山名教清寄進の岩谷山慈悲門寺の本尊であったが、当時(戦国時代)の情勢により開基・大河原彈正が少林寺に移したものと伝えられる。【資料提供:曹洞宗  圓通閣 澤龍山少林寺】

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