津山の私設美術館・その他のおススメ(お寺・博物館・資料館)
美術の秋を迎えましたが、津山にはまだまだ素晴らしい美術があるのを私たちは案外知らないのかもしれませんね。一般に公開されているものは数少ないのですが、私設美術館など今まで取材したものを少しまとめておりますのでご覧くださいね。それから、資料館・近隣の美術館なども併せてご紹介。(営業日時や場所は各HPなどでご確認ください。)
美術の秋を迎えましたが、津山にはまだまだ素晴らしい美術があるのを私たちは案外知らないのかもしれませんね。一般に公開されているものは数少ないのですが、私設美術館など今まで取材したものを少しまとめておりますのでご覧くださいね。それから、資料館・近隣の美術館なども併せてご紹介。(営業日時や場所は各HPなどでご確認ください。)
この美術館は、通称Nagi MOCA(ナギ・モカ)と呼ばれ、わが国を代表する世界的な建築家磯崎新によって設計され、平成6年4月25日に開館しました。
国際的に活躍されている荒川修作+マドリン・ギンズ、岡崎和郎、宮脇愛子の4人の芸術家に一般の美術館では収集不能とされる巨大作品をあらかじめ制作依 頼し、その作品、又その全体の空間を作家と建築家が話合い、美術館として建築化したもので作品を本尊にたとえれば建築家はそれに覆い屋を架けるという発想 から建てられた、いわば、作品と建物とが半永久的に一体化した、美術館です。 当美術館は、太陽、月、大地と名付けられた、外部からも明らかに認知出来るような形の3つの展示室から構成され、この土地の自然条件に基づいた固有の軸 線を持っています。「太陽」の軸は南北軸、「月」の平坦な壁は中秋の名月の午後10時の方向を指し「大地」の中心軸は、秀峰那岐山の山頂に向かっていま す。(文:奈義町現代美術館HP引用)(2014年8月26日取材)
2014年8月14日(木)午後4時~9時:30分(花火打上げ/21:00)第33回奈義町ふるさと夏まつりが奈義中央広場(奈義町現代美術館近く)で開催されました。奈義町は、町制施行60周年を迎えられたそうですね。
AYASA(Sword of the Far East)ロックバイオリンLIVEがとても素晴らしかったですよ。また、太鼓の演奏や、盆踊りがあったようです。そして、終わりには、約1500発の打ち上げ花火が、夜空に打ち上げられ大きな歓声があがっておりました。
上段左端が行列の先頭です。上段には、本行列の5日前に出発する宿割隊がいます。
(2014.8.6許可済み画像提供:津山郷土博物館)←詳しくはここをみてね!
津山松平藩第7代藩主斉孝(なりたか)が参勤交代により、津山へ帰国する行列を描いた絵図である。明治17年(1884)製作。襖仕立てで7枚からなり、各縦91㎝、横188㎝。
津山松平藩は、元禄11年(1698)の美作入国当初は10万石であったが、享保11年(1726)、第2代藩主の夭折により5万石に削減された。その 後、文化14年(1817)、第11代将軍徳川家斉(いえなり)の子銀之助(後の第8代藩主斉民(なりたみ))を養子に迎え、宿願の10万石復帰を果たし た。
かつて江戸城内にあった東照宮を飾った豪華な御簾
紅葉山東照宮 御簾
享保21年(1736)以前の作 竹・緞子・金工の組合せ
紅葉山東照宮の神前に掛けられていた御簾。簾の中でも高級なものは、特別に御簾と呼びます。細い竹ひごを編み、周囲が緞子(地が厚くて文様をあしらった光沢のある絹織物)でふちどられ、三葉葵紋の金具や織模様が多数あります。上部には紐の長い房が2か所に取り付けられ、その紐には鉤(簾を巻き上げた時に引っ掛けて止めておく金具)が付いています。最上部には、中央の日輪をはさんで左右に龍・麒麟・天馬・獅子の飾り金具が配置され、全体として非常に豪華な作りです。初代将軍であり「神君」とも呼ばれて徳川家の守り神とされた家康を祀る社殿を飾るのにふさわしい仕様とデザインで、かつての徳川将軍家の絶大な権威を思い起こさせます。
付属の由緒書によると、享保21年(1736)に浅草寺伝法院を経て美作一宮の中山神社神職美土路家が拝領し、同家に伝来したものです。(文:津山郷土博物館より)2014.7.31取材
河辺町内中心地上の町(桝形)のほぼ中央に位置し、普段は広場になっていますが、河辺神社のお祭りの際には、御神輿の中継場所とし使われ、御神輿で運ばれたご神体が一時滞在し、お宮と同じく子供による舞が奉納されます。
今の場所へは戦後移転されたもので、昔は東坂のすぐ近くにあり、出雲街道を通る殿様への恭禮の場所として使われていたそうで、御禮場と呼ばれ屋号も残っています。
現在多くの場所に、昔の街道沿いに配置されていた道標が残っていますが、河辺町内でも数カ所に残されています。
この道標が、真加部街道の起点で、田熊・植月を経由し真加部までの信仰・農耕・年貢輸送の道でした。
兼田橋東詰めには、国分寺道の道標が残っており、当時国分寺へのメイン街道としての、大きく立派な石碑が建てられています。道標は、他にもまだ点々と多く残っているものと思われます。(河辺の史跡・作成:河辺親和会・河辺町内会より)2014.5.18
2014年4月9日の桜
小田中に鎮座する天照大神を主神とした社で、作陽誌には白神社と記す。寛永12年森長継から大隅神社・八出天神社同様20石の知行を受けている。
本殿は主神にふさわしく神明造(しんめいづくり)とする。しかも、他の形式の介在をまったく許さず、正統性をよく保っていることは、市内に数社ある神明造 社殿のうちでは抜群である。すなわち、平面は桁行三間・梁間二間とし、正面中央のみ扉口を設けること、軒、屋根面ともに反りはなくあくまでも直線的である こと、両面に棟持柱(むなもちばしら)を有すること、破風板上方に鞭掛(むちかけ)があること、棟には千木(垂直に切る)堅魚木をのせること、等どれを とっても正規の造りになる。
成道寺(浄土宗)さんの玄関先にロウバイの花が咲いていると聞き、お尋ねしてみました。ここのロウバイは中が赤い色をしていて可愛いです。住職にお聞きするまでは、赤い色のロウバイがあるとは知りませんでした。成道寺の門は、市指定文化財になっています。また、西東三鬼句墓碑でも有名ですね。2014年1月25日撮影