【津山人】箕作阮甫(1799-1863)
阮甫は生涯一医者にとどまらず、経済・天文・法学・地理・物理・兵学など洋学者として、広く学問を修め、幕府の外交政策等にかかわり、近代日本の文明開化の先がけとなった一人で多くの業績を残した。まさに郷土の誇りである。勿論日本の誇りでもある。孫の菊池大麓は、東京大学の理学部教授・理学部長を経て、総長まで務め、のちに文部大臣、京都大学総長も務めました。(情報提供:津山洋学資料館)
阮甫は生涯一医者にとどまらず、経済・天文・法学・地理・物理・兵学など洋学者として、広く学問を修め、幕府の外交政策等にかかわり、近代日本の文明開化の先がけとなった一人で多くの業績を残した。まさに郷土の誇りである。勿論日本の誇りでもある。孫の菊池大麓は、東京大学の理学部教授・理学部長を経て、総長まで務め、のちに文部大臣、京都大学総長も務めました。(情報提供:津山洋学資料館)
2013年11月23日(土)・24日(日)津山城(鶴山公園)の見ごろを迎えたもみじです。この日は「ご当地グルメ・フェスティバル」があり、岡山県北一帯の美味しいグルメが大集合しました。また、同時に津山城探訪ツアー、ちびっこ広場、マリオのミュージックライブ、美作国大茶華会など沢山のイベントもあり賑やかな両日となりました。
2013年10月26日当日の天気は雨で心配しましたが、舞台が始まるころからは雨もほぼ止んでいました。ここは子どもの頃からいつも行っていた場所でもあり、感慨深いものがありました。薪能「田村」 は吉田篤史さんがシテとして出演。田熊回り舞台
主催:ゆきちゃんのぐりーん倶楽部 代表 小島幸子・共催:津山市田熊町内会
『勝加茂村史』によれば、祭神は大山咋之命、相殿に伊那諾之命・素戔鳴命をまつっています。建長四年創建と伝えられ、明治二年に、勝加茂西中(現中村)から安井字宇根に遷座しました。明治五年日吉神社と改め、明治六年に東賀茂神社と改称しました。(勝北町誌より)
地蔵院をお尋ねして谷崎潤一郎さんが、一時疎開していたという「宕々庵」(とうとうあん)のことをお聞きしてみましたが、もはや、写真も資料もないとのことで残念でした。今は、影も形もありませんが、地蔵院内にある愛山廟の前にダンジリ庫が建っているところにあったそうです。写真からうっすらわかるでしょうか?この写真は得能さんからお借りしたものです。記録では、庭には梅とつつじ、キリシマが植えられていたそうです。
誰か写真をお持ちではないですか?(2012.6.20)取材、前回の取材はこちら
2013年8月18日(日)今日で津山城模擬天守閣ともお別れなので、少し遠くから見てきました。半分の大きさとはいえ遠くからでもよく見えるものですね。私が行った中では全体が一番よく見えたのは小田中の山の上でした。この模擬天守閣が無くなってしまうのは残念ですが、昔の人はこんな感じで津山城を見ていたのだろうと往時を忍びながら眺め、真夏のひと時を楽しませていただきました。
展示期間:2013年8月2日(金)~8月18日(日)、場所:津山城(鶴山公園)、開催時間:午前8時40分~午後7時まで、入園料:16歳未満無料、16歳以上300円。(天候などによりスケジュールや内容が変更になる場合もあります。)
津山城の本当の姿を知っていますか?津山城は廃城令により天守・櫓などの建物が廃棄され鶴山公園として今の姿になりました。もし、保存されていたら。街の風景はどうかわったでしょうか?美作国建国1300年記念事業として、期間限定で復元されることになりました。地域のたからである「津山城」を復元する夢を皆様と一緒に思い描き、誇りと愛着といった郷土の和を広げましょう。
▲7月時点の進捗状況
2013近畿・中国・四国 B-1グランプリin津山が5月25日・26日に執り行われました。両日ともうだるような暑さの中25日(土)23,000人、26日(日)48,000人で合計71,000人の来場者がありました。8府県16団体が出展し、ゲスト参加は八戸せんべい汁研究所(青森県)や浪江焼麺太国(福島県)でした。本当に遠い所から参加くださった皆様に感謝です。
(2012年6月16日取材)愛山松平家墓所の古写真
津山市田町にある『寿司 よしひら』の得能さんのお宅には、貴重な物が沢山あります。そもそも得能家は秀康を祖とする越前家の第四代目の宣富公が、四国伊予の国(予州)から津山藩の初代として津山に入ってきた元禄11年(三代目の光長の時代に松山にいた)に、殿様に伴って古参取立てで来たのがルーツだそうです。
☆得能家(寿司 よしひら)に今なお伝わる資料が残っている。その中の一部を抜粋!
得能良平さんの祖父が、松平家務所に家族で住み宕々庵の維持管理全般をしていた時、松平氏の親族 渡辺明氏(渡辺明氏は松平氏の弟であるが、渡辺家に養子に行っていた。谷崎婦人の松子さんと渡辺婦人の渡辺里子さんは姉妹)の縁で谷崎潤一郎が津山にやって来た。その時の『備忘録』が残っている。
また、得能家(現よしひら)に東山魁夷が訪れていた。その他地図や雑誌、写真など諸々の資料。
黒媛伝説
黒媛は吉備の海部直の娘で、容姿端麗であったために都に召され、仁徳天皇の寵愛を受けながら、皇后の磐媛の嫉妬にあい故郷である山方(形)の地へ帰された。その黒媛を慕って仁徳天皇がわざわざ草深い山方(形)を訪れ逢瀬を重ねたという古代のロマンスが「古事記」に載っています。
この伝説は、八幡神社の由緒にも記されています。そして、この水原古墳は「黒媛」の墓(黒媛塚)だとされており、他にも山方(形)地内には、黒媛が住んだ所といわれる地名などが今も残っています。古歌にも仁徳天皇が山方(形)の地に黒媛を訪ねたときに詠んだ歌、黒媛が返歌を詠んだものなど、この地にゆかりの深いと思われるものが少なくありません。
昭和12年4月、この古墳が発掘されたことは勝北町誌にも掲載されていますが、当時の出土した陶棺などは、現在、東京国立博物館に保管されています。2012年10月25日取材(文:看板より)