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取材記事内を検索ワード「坂」で検索した結果,299件の記事が見つかりました。

因美線 美作滝尾駅

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美作滝尾駅(みまさかたきおえき)は、岡山県津山市堀坂にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)因美線の駅である。駅名の由来はかつての所在地自治体名であった滝尾村(1954年津山市に編入)より。開業時、既に九州の大分県に「滝尾駅」が存在したため、規定に従い当地の旧国名を取って「美作滝尾駅」と命名された。(前回の取材の様子はこちら
1928年(昭和3年)3月15日 - 因美南線として美作加茂~東津山~津山間が開業した際に設置。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道の駅となる。津山方面に向かって右側に単式ホーム1面1線を有する地上駅(停留所)。

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忠臣蔵四十七義士・神崎与五郎則安について

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脱藩藩士を厳しく批判した「赤城盟伝」を著した赤穂藩随一の酒豪
神崎与五郎則休(1666~1703)
志深浅働次47士中37番目
・酒好きで、ついたあだ名が「燗酒よかろう」(講談)
・短歌を詠み、俳句を作り、江農舎竹平と号す。
・「赤城盟伝」を前原伊助と共に記した。
・吉良邸近くに、前原と共に米屋を開き、探索にあたる。
生年・生国 寛文6年(1666)・美作国
役   職 徒目付、郡目付
行   年 38歳(元禄16年2月4日、切腹)
もと津山森家の家来だった。文武両道に秀でていただけでなく、俳句が得意でいくつか残されている。扇子や小物を売り歩いて吉良邸を探索した。前原宗房とともに「赤城盟伝」を著した。

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田邊城のさくら満開時の様子

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お天気に恵まれた4月の清々しい朝、思い立って田邊城へ登ってみました。相変わらずの急こう配ですが、何度かお訪ねするうちにスムースに登れるようになりました。田邊城は岩屋城の属城としての役割を果たして来たお城です。詳しくは2010年の取材記事をご覧ください。前回は、2010年4月29日2015年5月5日にお邪魔しております。(2016年4月16日撮影)

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旧津山扇形機関車庫 「津山鉄道遺産1」


津山扇形機関車庫トップ 津山鉄道ミニガイド 津山鉄道史 津山鉄道遺産1 津山鉄道遺産2  鉄道資産について  津山扇形機関車庫(機関庫)とDE50-1 (2007年取材)


このページでは、津山で見ることができる鉄道関係の近代化遺産を紹介しましょう。
近代化遺産とは、幕末期から第2次世界大戦終了時にかけて、近代的手法によって建てられた産業・交通・土木等にかかわる建築物のことを言います。津山市に は城東むかし町屋、あけぼの旅館、作州民芸館をはじめとして58の近代化遺産があります。その中で鉄道に関係するものは19です。
これらは津山の町の発展とともに生まれ、発展を支えてきた歴史の証人であり文化遺産です。そして今では津山の景観に溶け込み、私たちの心に素敵な風景として定着しているものばかりです。
「いやー、津山って本当にいいところですね」・・・みなさんも津山の鉄道に乗って四季折々の素敵な風景を楽しんでみませんか。(参考文献:「岡山県の近代化遺産」岡山県文化財保護協会発行)

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神崎与五郎と勝間田宿、下山本陣

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 忠臣蔵といえば、赤穂浪士の復讐の物語で、全国津々浦々まで知れ渡っている。赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのが、元禄15年12月14日であったため、現在に至っても年の瀬が近つくと、必ずといっていいほどメディアによって放映さている。
 私が太平洋戦争のさなかに勝間田国民学校に在学していた頃、毎年12月14日には、先生に引率されて、黒土地区にある赤穂浪士の1人神崎与五郎の両親の墓参りをしていた。その頃から神崎与五郎が私たちの郷里で、家族と共に何年か過ごした後、播州赤穂藩に仕官したのどということが分かり、子ども心にも誇らしく思っていたものである。
 神崎与五郎則休は、美作津山藩主森家に仕えていた神崎又市光則を父として、寛文6年(1666)津山城下で生まれた。生母は元禄3年(1690)8月に病没し、津山市愛染寺に葬られている。

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津山城(鶴山公園)のひな祭り

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津山城ひなまつり

2016年3月2日(水)~13日(日) 9:00-16:00 ( 津山城内「鶴山館」)で、明治初期から平成までの雛かざりを展示。会場内では熱心に見入る方がおられましたよ。また、苅田家のお雛様は明治時代の初期~40年代の楽しいお雛様が沢山あって見ごたえがあります。(2016年3月2日撮影)

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大蔵池南製鉄遺跡(神代)

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 大蔵池南製鉄遺跡は道路建設に伴う発掘調査により発見されました。調査の結果、7層の作業面とその作業面に伴う製鉄炉安登を6基検出しました。この製鉄遺跡の時期は、一緒に出土した遺物により古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初頭)と推定されます。
 製鉄遺跡は尾根の南斜面を削り取って、巾約5m、長さ約7~8mの平坦面を造っています。この平坦面は作業面で、製鉄炉を築造し、燃料置場、原料置場、さらに鉄滓を廃棄する場所等がありました。製鉄炉はスサ入粘土で巾50~60cm、長さ約100~120cm、四方の箱型に造られており、炉の長辺の両側にはテラス状の作業台が付いています。
 炉壁には直径3cmの通風孔が穿たれており、製鉄作業の燃料には木炭、原料には砂鉄を用いて、人工的に送風しながら製鉄を行っていたと考えられます。
 検出した1・4・5・6・7炉跡と、その下層の遺構は遺跡の重要性を考慮して埋土により保存されています。
 この遺跡の所在する糘山地区には鉄滓を副葬した古墳や鉄穴流し遺構(砂鉄採取の跡)があり、古代から鉄と深く結びついた地域であることがわかります。
久米開発 文化財調査委員会(解説板より)(2016年2月16日撮影)

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七森神社(坪井下)

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七森神社(所在地 大谷神楽殿)
 祭神は、田心姫命(中瀛)・湍津姫命(海浜)・市杵島姫命(遠瀛)の三神です。
 いつの時代に勧請(神仏の分霊を迎える)されたかは定かではない。坪井下大谷の辺鄙の地に鎮座されていましたが、明治41年10月鶴坂神社に合祀されました。
 また、大谷山の芝草刈論争(大谷山論)で、江戸幕府に直訴以来勝訴になるまで坪井村の住民は、七森神社に必勝祈願を毎日続けたと云う。それ以来秋の祭礼は、10月17日に仕事を休み神様に感謝の意を表すことを決めたそうです。現在も坪井の若者が御神輿を担ぎ地区内を巡幸し、秋季大祭を盛り上げています。
 三神は、天照大神が須佐之男命と天の安河原にて御誓の時に生まれた神で、宗像にいて、筑紫国を治め、もっぱら天孫を助けたと云う。

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大別当城跡(おおべっとうじょうせき)

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 大別当城跡は、大別当山の尾根伝いに残る中世の山城跡です。
 南北に細長い山頂部に曲輪(くるわ)がいくつも並ぶ連郭式(れんかくしき)と呼ばれる構造で、堀切(ほりきり)も確認できます。東西は急峻な斜面で、自然の地形を巧みに利用しています。
 展望台からは、町内に残る山城をはじめ、津山市、美作市の山城も遠望でき、群雄割拠の緊張感を偲ばせる遺構です。
 また、麓のイムラ遺跡(高円構)は、城主、家臣団の暮らした跡と伝わっています。(文:案内板より)(撮影2016年1月3日)

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美作の国 [歴史]

[歴史]
 古代から江戸時代に至る岡山県北東部の行政区画、東は播磨、西は備中、南は備前、北は因幡、伯耆の諸国に接する。「続日本記」和銅6年(713)4月3日の条に、備前国の、英多、勝田、苫田、久米、大庭、真嶋(島)の6郡を割いて、初めて美作国を置いたとある。美作は、「和名抄」では、<美萬佐加>と読む。国衙(こくが)は苫田郡(とまだ)内(現津山市総社)、国分寺は勝田郡(現津山市国分寺)に置かれた。863年(貞観5)苫田郡を苫西、苫東と分割する。奈良時代の終わりから平安、鎌倉時代にかけて多くの荘園が成立した。神護寺領佐良庄をはじめ、稲岡庄、梶並庄、倭文庄(しとりの)、河内庄、英多保、林野保、真島庄などが有名。武士団としては"菅家党"が有名。平安末期には稲岡庄で法然が誕生した。

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