津山城「四足門」
四足門は、大手の二の丸の入口にある門です。門は、廃城後の明治7年に中山神社(津山市一宮)の神門として移築されました。絵図と比べると、屋根が瓦葺から檜皮葺に変わっていますが、現在でも見ることのできる数少ない津山城の建物の一つです。
絵図や現在の神門の調査から、薬医門であることや、扉のついていない城門であったこと、柱の位置関係が絵図と重なることが分かりました。発堀調査では、門の礎石の根石を確認しています。
四足門は、大手の二の丸の入口にある門です。門は、廃城後の明治7年に中山神社(津山市一宮)の神門として移築されました。絵図と比べると、屋根が瓦葺から檜皮葺に変わっていますが、現在でも見ることのできる数少ない津山城の建物の一つです。
絵図や現在の神門の調査から、薬医門であることや、扉のついていない城門であったこと、柱の位置関係が絵図と重なることが分かりました。発堀調査では、門の礎石の根石を確認しています。
いつも通る度に気になっていたのでここらで一度調べてみようと思い、昔の写真を拾い出してきました。(撮影2014年7月25日)この石碑には「奉供羪大峯三拾三度為現當二世菩提碑 寶法印敬白」(たぶん?)と書かれている。今年になって知人にお聞きしたら、下記のお返事が来ました。
「供養のための石碑のようです。三十三の文字が見え調べてみました。
三十三とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来している。」とのことでした。解明でき良かった。
知原公園(津山市東一宮1303)は、グリーンヒルズに近い住宅街の一角にありますが、周りには田んぼもまだある静かな環境の公園です。シーソーやブランコなどの遊具もあり子どもと遊ぶには良いところです。また、鳥居公園が近くにあります。(2020年3月25日撮影)
ヨーロッパにつたえられた津山
17世紀のはじめ、美作にも、青い目の宣教師が、いくたびかおとずれ、キリスト教を布教しています。そのころの津山の様子が、宣教師によって、次のようにヨーロッパに伝えられています。
「森忠政は、領内にキリシタンはいないと幕府に報告して、キリスト教を黙認している。城下町の近くには、美しい墓地があって、キリシタンは、そこに行って、祈りをささげている。墓地の中央には、高さが3メートルをこえる、すばらしい十字架ががある・・・。」(『日本キリシタン宗門史』より)
天台宗 岩間山本山寺(いわまさんほんざんじ)は、長承元年(1132)稲岡ノ庄(誕生寺)の漆間時国公夫妻が参詣、祈願して生まれたのが、後の浄土宗の宗祖と仰がれる法然上人(源空)です。江戸時代になると、津山藩の祈願所として尊ばれ、森候の時代には、美作の天台宗の触れ頭であったといわれています。また、境内には沢山のシャクナゲが植えられています。(2020年5月17日・23日撮影)
枡形城の繁栄した年代に創始されたと言われ、以来400年以上踊り続けられている盆踊りがあり、毎年7月23日が祭日である。『天正年間(1573~1592)に枡形城が築かれたときに新町が作られて、戦国時代の生々しい戦いと混乱の世相に仏の慈悲を念じ、この地に地蔵堂が建設された』と伝承されている。
棟札によると、
宝暦4年(1754)5月改築 天明5年(1785)改築
明和2年(1764)円通寺住職「龍盁」の名をもって燈明料として、白米6斗5升が寄進されている。
島田家 島田太郎兵衛 西々条郡院庄村 森藩
大庄屋まで
島田氏は、鎌倉幕府の役人としてこの地へ移り、代々太郎兵衛を名乗ったといわれる。美作一国の領主となった森忠政は構城の築城にあたり島田家に居住し、忠政の子忠広は島田家で生まれている。
島田家は元禄10年(1697)まで4代大庄屋を勤めたが、5代目は幼少であったため、後見役を勤めていた江川四郎左衛門が森藩改易後、大庄屋に任命された。
大庄屋として
慶安元年(1648)布原台地の開発に関わった。
美作の田口氏=云い伝えによれば蘇我蝙蝠臣の末、田口朝臣房富二十一世の孫田口重如當國苫田郡を領して田野村に瑞雲山を建立す。その子光益、大和國髙市郡を領し、その子左衛門尉光政、小吉野庄を領してて北髙田に城を築く。また、田野邑に田口山引乘寺(正明寺)を建立す。建武以来山名時氏に属して作州を平定し應永二年三月七日卒したり。なお、山名坊菴入道忠政の女(守護代鶴山城に居る)、虎御前は田口薩摩守光政の室なりと伝わる。
光政の一子紀重藤は、天正十七年に備中松山城を攻めて庄蔵人を討伐せし功により、勝南郡南分吉留村を領し、光政の二男忠光は父の跡を継ぎ北髙田に居城す。忠光五世の孫田口彦兵衛光正に至り、大内義興を助け、その子志右衛門尉重光は尼子晴久に属し、天文年中各地に転戦したれど、のち毛利氏に随いて宇喜多勢と戦いたり。その後大蔵甚兵衛尚治と謀りて志戸部の出城を潰滅させたれど、その子藤左衛門益重に至り、天正七年神楽尾落城して宇喜多氏に降りたりという。このほか「東作志」に「勝南郡公文庄重藤邑庄屋田口庄七」記載さる。(文:『田口一族』より)
令和元年5月4日、令和最初の「矢筈山登山会」が開催された。(矢筈城の概要は⇒こちら)
参加者38名。遠く大阪市、鳥取市内からも参加する方がおられた。
開会式、安全祈願のあと、意気揚々と登山を開始した。(この記事は2019年5月4日の登山会の記録です。)
岡山県美咲町にある岩間山 本山寺の境内にはシャクナゲの花が沢山植えられています。毎年、訪れるのですが、今年は4月11日と少し早めに伺ってきました。2013年5月2日分と併せてご覧ください。
本山寺は、江戸時代津山藩の祈願所として尊ばれていた寺院で法然上人ゆかりの地でもあります。現在の境内地は4200坪と広く、十余棟の堂塔伽藍は昔に変らぬ面影を伝えています。また、国指定文化財、本堂(1350)、三重塔(1652)、宝筐印塔(1335)があります。
(岩間山 本山寺 法然上人ゆかりの地、2012年11月12日取材)