地蔵堂(鏡野)

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 枡形城の繁栄した年代に創始されたと言われ、以来400年以上踊り続けられている盆踊りがあり、毎年7月23日が祭日である。『天正年間(1573~1592)に枡形城が築かれたときに新町が作られて、戦国時代の生々しい戦いと混乱の世相に仏の慈悲を念じ、この地に地蔵堂が建設された』と伝承されている。
 棟札によると、
  宝暦4年(1754)5月改築  天明5年(1785)改築
 明和2年(1764)円通寺住職「龍盁」の名をもって燈明料として、白米6斗5升が寄進されている。

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古老の口伝、地蔵踊りと大火
 厄除けの信仰と往時の娯楽として老若男女が一斉に踊っていたが、享保の大飢饉の時全国的に歌舞音曲一切禁止になった時でも、この踊りだけは災害よけの踊りとして続行されたと言われている。
 また、天保5年(1834)新町大火災のとき、北から焼け続けてちょうどこの地蔵堂まで火が迫ったとき、急に強い南風が巻き起こり、さしもの猛火もおさまったと言い伝えられている。

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データ「享保の大飢饉は、1716年~1736年のおよそ20年間に、干ばつ、洪水、疫病等を繰り返し起こり、津山藩で餓死者12,480人と記録あり。」

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地蔵踊り全国大会出場 <昭和44年(1969)>
 新町「地蔵おどり」郷土芸能部門で、全国大会出場決定。
県教委、県青年団協議会、新見市主催の青年文化祭が新見市で開催され、郷土芸能の部で備中かぐらや、その他の踊りを押さえて、優秀賞に選ばれ晴れの全国大会の出場権を獲得した。

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この町並みに人々が移転集まるようになり、当初は問屋、旅籠、鍛冶屋、茶店、大工、左官、そして時代の変化と共に材木商、酒屋、商店、郵便局、銀行、医院など職人、事業家、政治家、農協、学校等の公共機関が集まり地方文化の中心的な集落に発展していったのである。
 此の香々美の地域が発展したのは、古より伯耆の国(山陰)と美作の国を結ぶ「伯耆往来(倉吉往来)」の通路が大きな要因であり、宿場町が形成され道標、一里塚、茶屋の整備などにより、人々の往来が盛んになり、宿場町(新町)が「核」となったのである。

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明治初期の新町街道の様子              

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香々美中村の絵図「江戸後期の天保8年(1837)」
(文:『郷土の歴史探訪 桝形・日上山城と香々美村の暮らし 著者:髙宮惇』より)
(2019年8月20日・2020年5月19日撮影)