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美作の大庄屋巡り「井上家」

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井上家 井上勘三郎 勝北郡福井村 土浦藩
 家伝によれば、源頼朝に仕えた井上十郎左衛門義吉の後裔井上蔵人正清が播磨国乃井野から移住して岩黒城を築いた。一族は後藤勝基に仕え、天正7年(1579)三星城合戦で戦死した者もいた。正清の子孫が、福井村帰農したという。延享4年(1747)、土浦藩は吉野郡、勝北郡の1万9千石余を領し、天明2年(1782)大庄屋として近長村甲田猪吉、福井村井上勘三郎を任命した。
 大庄屋としての記録はなく不明である。福井村正伝寺、八幡神社の延享元年の棟札に、庄屋井上五郎兵衛の名がある。
 福井村は、広戸川が形成した低地と、低丘陵の村である。森藩改易後、幕府領となり、延享4年(1747)常陸土浦領となった。

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「津山まちなか博物館」が、バール横丁に移転しました。

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「津山まちなか博物館」が2019年9月14日に、本町三丁目「バール横丁」に移転オープンしました。
津山まちづくり倶楽部のメンバー所有のアンティークな物や珍しい骨董など、選りすぐった逸品が装いも新たに展示されています。(2019年9月28日撮影)

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津山・城西まるごと博物館フェア2019

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 津山市城西地区は、津山藩初代藩主・森忠政公が祭られている本源寺をはじめ、17か寺が集まった寺町や、城下町鎮守の徳守神社があります。大正時代に商業で栄えたこの地域で毎年秋に行われる津山・城西まるごと博物館フェアは、いまやみんなが楽しみにしている津山を代表するイベントのひとつです。クラフト展や屋台村が軒を連ねて今年も大変な人出で賑わいましたが、中でも若僧会の皆さんのウィットに富んだ明るい悩み相談の答えが大うけでした。

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八幡神社(院庄)

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由緒
創建年代は不詳であるが、美作の政治の中心地に鎮座せられたので、多数の氏子を有し、祭事も盛んであったが、津山に政治の中心が遷ってから衰退し、一時は吉田神社の境外社であったが、明治六年に村社に列した。昭和十六年神饌幣帛料供進指定神社に指定せられた。(文:『岡山県神社庁誌』より)(2019年1月19日撮影)

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別所山 無量壽院 安養寺(鏡野町)

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 当山の開祖は、嵯峨天皇の時代嵯峨山と伝えられていますが不詳です。播磨の三木城主別所家の菩提所として再建され、別所寺と呼ばれていました。
 天正八年(1580)正月に三木城が落城し、別所長治自刄の翌年、宇喜多和泉守直家により別所山安養寺と命名されました。慶長の初め、快鏡上人により再興され、度々の災禍の後、弘化三年(1846)に日笠快道上人が新住され、私財をもって本堂、庫裡を再建され、宝筺印塔を建立、西国三十三観音を勧請、野津羅井堰築堤して水路を開くなど、中興の祖となられました。久田村安養寺の略歴です。
 平成五年、もとは旧奥津町土生にあり、奥津ダム建設のため当地を得て再建、平成十年四月に落慶しました。
 本尊は、阿弥陀三尊です。他に鎌倉後期の等身大十一面観音、室町期の不動明王ほか、聖観音、弁財天、毘沙門天などを祭祀してあります。西国三十三観音は南の山、岡山から北の山、天王ノ木にかけて勧請し、遊歩道も整備してあります。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年9月16日・20日)

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醫王山 佛教寺(久米南町)

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岡山県久米郡久米南町「醫王山佛教寺」の略歴と沿革
 当山、醫王山佛教寺は和銅3年(710)喜恵上人が開山、肩野部長者乙麻呂が創建した古刹。元明天皇の勅願道場として、東西80町南北100町の地域を賜った。
 元慶3年(879)二十二世、文観上人の時代、陽成天皇の勅願道場として、四十九院建立、近隣に比類なき伽藍美を誇ったが、天正9年(1581)兵火に罹れて悉く烏有に帰した。
 その後再建したがわずか六院だった。慶長9年(1604)津山藩主森忠政が寺領を寄進。堂塔を再建したが、元禄10年(1697)森家が断絶となり、経営の基を失って困難を極めた。
 明治初年まで六院あったが、本堂や仁王門を取り壊して、竹林寺(佛教寺別院)の文殊堂を移して本堂とした。
 現在諸堂の建物は、弘法大師1150年御遠忌を記念し、昭和49年より現在に至るまで、境内諸建物の営繕を行って来た。現在の住職は九十二世である。
 『竹林寺縁起』(永享7年=1435別当沙門良春、筆者宥然)に、「当国一宮、仲山大明神御社敷の本主肩野部長者・喜恵上人に帰依し奉り上人の寺を建立せんとして三百町の別所を開き、元慶3年乙亥の年四十九院を建立、夢想によって佛教寺と号す」とある。(文:佛教寺リーフレットより)(2019年9月8日撮影)

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箕作家の歴史研究 ―西洋史はどう伝わったか―

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津山洋学資料館 夏季企画展 箕作家の歴史研究 ―西洋史はどう伝わったか―
会期:7月6日(土)~ 9月16日(月・祝日)
 津山藩の洋学者箕作阮甫は、養子となった省吾とともに、地理書『坤輿図識』を刊行し、世界の国々の歴史についても紹介しました。また、阮甫の初孫である麟祥は、フランス法学や経済学を学び、法制官僚として活躍するかたわら、『万国新史』を刊行し、世界の歴史を綴りました。
 同じく阮甫の孫で、麟祥の従弟にあたる元八は、二度のドイツ留学を経て東京帝国大学文科大学(現 東京大学文学部)西洋史学科教授となりました。元八は『フランス大革命史』をはじめとする多くの歴史書を著わし、それらの本を皇太子時代に愛読した昭和天皇は、のちに「最も偉大な影響を受けた」と語られています。(文:津山洋学資料館HPより一部抜粋)(2019年7月14日撮影)

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地神(原・西下)

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 多くは文字塔であって自然石や角柱に「地神」あるいは「地神塔」と彫ったものである。大地の力が作物の豊作・不作を決める事から、農民の地神への信仰は根強いものだった。今でも家を建てる時などには地鎮祭を行っている。
 百姓の神とか、あるいは春の社日に来て田畑に出て、秋に帰るまで作物を作っている神といわれ、小字単位で地神講が組織されている所もある。

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二上山 両山寺(美咲町)

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高野山真言宗準別格本山両山寺
 当、両山寺は、人皇四十三代元明天皇の御宇和銅七年(714)開祖泰澄法師が観音の霊夢により草創されし霊刹で御本尊は、正観世音菩薩にして尊像は天竺毘首羯摩の作なり。山は二峯併立し恰かも金胎両部を表示し、一岳両峯真に天地自然の妙容なり、故に山を二上山と呼び、寺を両山寺と号す。開山の砌りは、真言、天台の二道場にして二十有余坊の僧坊、七堂伽藍を有し近国の名刹として頗る聞こえしがいつしか天台宗衰え真言一宗となり、現在は本坊一寺となり他は字名として残るにとどまり栄枯盛衰の跡を物語るにすぎない。養老年中(717~723)唐土の不空三蔵当山の本尊を加持し、国家安泰を志願し五智尊像を五重塔に納められるが、永禄八年(1565)尼子氏と毛利氏の奸戈により堂塔伽藍を焼失せり。此の時、本尊正観世音菩薩天野ヶ原に飛行士光明を放ちて赫々たるを朱雀天皇の御苗流僧正良尊大和尚直に尊像を守護し奉って、再び此の地に堂宇を建立し本尊を安置す今の本尊即ち是れなり。
なお、元禄元年(1688)十一月朔日、当国の大守長成公より万代不易の寄附顕然たり。而して当山、其境幽遽にして頂嶺の遠望は両眼象山恰かも平地の如く一度山頂に立てば雄大の気自ら迫り無二の霊場と言う可きである。また当山の鎮守護法善神は、仏法擁護、伽藍安全の守護神で、建治元年(1275)七月僧定乗護法の詑宣を得て、毎年陽暦八月十四日祭式(県指定重要無形民俗文化財)を修め天下泰平、万民快楽の祈念を行っている。 合掌(文:境内の案内板より)

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美作の大庄屋巡り「中島家」

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中島家 中島多右衛門 西北条郡香々美中村 松平藩
大庄屋まで
 香々美中村中島氏は、延享4年(1747)大庄屋岸三郎左衛門が職務を召し上げられたことにより、寛永2年(1749)姻戚関係のあった一宮村中島家から、多右衛門が香々美触の大庄屋に任命されて岸氏の屋敷に入り、跡を受け継いだ。
大庄屋として
 ペリー再来航のとき、中島多右衛門は、農夫77人を率いて江戸に赴いた。また、私塾「休嫌学舎」を開き、塾の指導者として鞍懸寅二郎を招いた。寅二郎は後に津山藩に登用され、藩論・尊皇攘夷を主導した。

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