まほらでいちご狩り。
2019年2月17日に「まほらファーム」へいちご狩りに行って来ました。外は風がピューピューと吹いて寒かったのですが、ハウスの中はポカポカ陽気であったかです。一歩入ると、いちごのあま~い香りが漂って食欲をそそります。ハウスの中では沢山の家族や若者が夢中でいちごを食べていましたよ。
2019年2月17日に「まほらファーム」へいちご狩りに行って来ました。外は風がピューピューと吹いて寒かったのですが、ハウスの中はポカポカ陽気であったかです。一歩入ると、いちごのあま~い香りが漂って食欲をそそります。ハウスの中では沢山の家族や若者が夢中でいちごを食べていましたよ。
西今町の西に連なる西寺町の更に西に接した町で、貞享年間(1684~1688)以前は茅屋町と書かれています。
寛永以降商いを営む者ようやくここに移住し茅町と称す。しかしながら市街に属するを得ず、寛文(1661)中、安岡町の人、渡邊藤左衛門義信の請願により、始めて市街に列し、地租を免ぜられる。貞享3年(1683)茅町に改む。(『津山市史』第3巻より)
もともと茅町は、城下の東西の一番端につくられた町といわれています。東の端にも萱屋町がありました。
若宮神社は神様のお子神であり、碑に「元禄13年再建」と刻まれています。境内末社には亥子神社があり「いのこ石」が祀られています。多賀神社は長命延命の神として知られています。東側に樹齢約400年の大木のケヤキがあります。吉井川改修以前の堤防に植え付けられていたといわれています。
神田のおこり
慶長9年(1604)に森忠政公が美作の太守として城下町を造る際に、各小川の流れを吉井川に集めました。当時は、紫竹川の支流が新田地区を流れていましたが、廃川となりそれが新田の開拓の源になったようです。
福力荒神社は、マムシ除(よ)けや安産に御利益があるとされ神社です。
2019年2月5日~2月7日の旧正月の3日間は午前10時から神事が行われ、巫女による浦安の舞、豊栄の舞が奉納されました。3ケ日には安産・蝮除け・学業成就など願う参拝者で賑わい、参道には沢山の露店が立ち並びます。御利益は、蝮除け・子授け・安産・家内安全・学業成就・交通安全・商売繁盛・良縁等 (由緒・沿革)です。(撮影:2019年2月7日)
鷹山に中世の城砦と思われる跡がある。
加茂川沿いの近長道に接する鷹山の頂上は南から西、北と非常に眺望がよく、以前から村人のお花見場として親しまれていた。この山頂に削平された南北二段の平地がある。30㎝ほどの段差で上段南側は一辺約12mの方形、下段北側はやや広い不定形の平地である。尾根続きの40mほど東にも現在は墓地になっているが平坦地がある。ここから東に5、60mのところには尾根を馬の背のように削り出した通路が残っていて陸橋の跡である。なお東に続く尾根には土塁の跡を疑わせるところもあり、一帯が城砦の跡と思われる。
2019年2月5日のイナバ化粧品店さんです。
この日は抜けるような青い空でポカポカ暖かな日になったので、一ヶ月ぶりにイナバ化粧品店さんをお訪ねしてきました。全国から来られたファンの皆様や、他県の高校生が研修で訪れたついでにイナバ化粧品店に寄りたいとお出でになっていました。その後、サムハラ神社へ行く道中、受験の話から「うちの子は朝ラジオで英会話を聞いて勉強をしていたのよ。」と教えてくださいました。
美作の国一宮(津山市一宮)に、中山神社というお宮がある。今は、牛の神さまとしてうやまわれているが、むかし、この神社のご神体は、サルであったといわれている。
猿神社(さるじんじゃ)今昔物語二六巻にみえる「中山の猿」の霊を祀るとされ、現在、猿田彦神として祀られる。牛馬の安産守護の神として信仰を受け、今も尚、ぬいぐるみの小猿を奉納する風習が残る。
津山総鎮守徳守神社のある宮脇町には、津山城下の西の入口として往来取締りを行う西大番所が今の翁橋東詰にありました。
築城当初は、南側は神社の境内でしたが、現在の街並みになったのは1700年頃と思われます。明治まで徳守神社門前の商人町として、また城下の西の護りの要としての役割を果たしてきました。
なお、当町内のだんじり「廉珠台」は、津山最古の物で今も徳守神社秋祭りには曳き出されています。
津山市生涯現役促進協議会が55歳以上を対象にした庭木剪定入門セミナーを開催されると聞き参加して来ました。庭木剪定の基礎知識から松の剪定までの連続した3日間で、低中木剪定の基礎知識から、松の選定、剪定後の仕上げや清掃までを、植木屋 内田博士先生から学んできました。今回は社会福祉法人鶯園内の植木の選定で定員を大きく上回る人気のセミナーでした。参加された皆さんは、ご自宅の庭木をなんとかせねばと参加された方が多かったと思いますが、卒業後はシルバー人材センター等のお仕事も紹介しますとのことでした。
河原儀山 眞光寺 大字福田下村
作陽誌と宝暦5年の由緒書上帳によると承和元(834)年3月15日弘法大師の関闢で、旦那は左衛門殿大江行経である。大師の御弟子 南池院僧都源仁法印が担当しての草創であり、当然真言宗の寺院であった。其の98年程後、承平2(932)年、比叡山の民部大僧正が流しものになったか、それとも自分から身をかくす必要があっのか当国に下着した。そして福田下村の地で霊異を感じ、加賀国の白山権現を勧請して天台宗の寺院として念仏思念三昧に入ること百日、たちまち9万8千の軍神が机の4面に現れた。ということで、最初の98年程の間、真言宗であったものが承平2(932)年以降天台宗に変ったものである。