神田(小田中)

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神田のおこり
 慶長9年(1604)に森忠政公が美作の太守として城下町を造る際に、各小川の流れを吉井川に集めました。当時は、紫竹川の支流が新田地区を流れていましたが、廃川となりそれが新田の開拓の源になったようです。

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神田荒神様
 神田荒神様は、古来より神田の守り神として厚い信仰を集めています。荒神様の場所は現在の神田公会堂の西側にあります。
 田植えが終わると各農家が「しろみて」と称して家族揃ってご馳走をして荒神様にお供えし、お籠と称して部落民が集まり、懇談交流の場所として利用し大切に扱われています。毎年地元の青年の行事として祭りが行われていました。
 昭和20年の大東亜戦争終結後は人心が荒廃し各行事や祭礼もおこなわれなくなり、町内で協議し徳守神社にお願いし、徳守神社社内に移宮していました。その後神田町内に於いて、相次ぐ災難が続発したため、荒神様を粗末な扱いをした事が起因したのではないかとの心配意見が続発したため、再び、神田の地に遷宮し町内の守り神として、祭礼を行う事となり現在は神田長寿会の行事として、毎年夏祭り・秋祭りを徳守神社の神官をお招きして行っています。

神田稲荷様
 場所は通称中道と呼ばれる道路沿いにあります。五穀を司る神様で、田の神、農耕の神、豊作、商売繁盛、出世、旅に出る時には道に迷う事がないようにと祈願して旅に出ておりました。
 その昔は町内の人が食事を持ち寄り豊作、無事息災祈願、その他懇談の場所として利用していました。また、亥の子塚とも呼ばれ、旧暦の10月の亥の子の日に、亥の子祭りと称して、子ども達が集まり丸い石に何本かの綱を付け、夜は提灯に火を付けて各家庭を「亥の子、亥の子おにうめ じうめ つののはえた こうめ・・・・」と歌って廻りお布施をもらうと「この家、繁盛せい、繁盛せい」と歌いながら亥の子石を地面に打ち付けていました。亥の子の風習は現在も伝わり、子ども達でおこなっています。昔、亥の子の日は亥の子喧嘩と称して、各部落同士で亥の子石を取り合いをして、怪我人が出るほどでした。(文:『作州城西史』より)(2019年1月14日撮影)