嵯峨御流いけばな展「はな雅」 特別企画 「華と雅楽の奏で」
特別企画 「華と雅楽の奏で」雅楽「雅古楽会」の演奏と嵯峨御流華道津山司所 光岡道寛司所長が、雅楽の演奏に合わせて花を生けるパフォーマンスが3月2日(土)ベルフォーレ津山でありました。(2013.3.2取材)
特別企画 「華と雅楽の奏で」雅楽「雅古楽会」の演奏と嵯峨御流華道津山司所 光岡道寛司所長が、雅楽の演奏に合わせて花を生けるパフォーマンスが3月2日(土)ベルフォーレ津山でありました。(2013.3.2取材)
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水島節子さんからお聞きしました。「勝山には、こっくりさんに聞いてから来たそうですよ。終戦前に来られたときは着物を着流しで歩いていたので当時は珍しく、また、おいしい物が好きな方だったそうです。」
「ここからピアノの音が聞こえたので、谷崎さんが尋ねて来られたのが最初で、その後、姑がご馳走を作っておもてなしをしていたようです。また、谷崎さんはここの2階でも時々執筆していたようで、子どもが変なおじさんが来たら、だまらんといけん!と言っていたそうです。」今は息子さんの代で水島呉服は止めて司法書士事務所になっています。
節子さんの姑で故水島芳子さんが谷崎一家を助けたことは有名です。
「水島家に谷崎さんのお気に入りの中之庄谷美智子さんが居たことも大きな要因ですが、水島芳子さんという心の大きい人が居なかったら勝山での谷崎家は随分困ったには違いない。」と見せていただいた雑誌コピーに書かれてあった。
食料だけではなく、水島芳子さんの太っ腹な大らかさが谷崎家に貢献したのです。(2012.5.13取材) ※谷崎潤一郎とは
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昭和20年(1945) 5月15日 新聞記者で月田出身の岡成志の勧めで津山市八子の松平別邸に疎開。この間、岡氏は死去する。
6月 3日 岡未亡人から勝山に貸間があると知らせてくる。
6月 4日 土井武氏の案内で新町の小野はる氏の離れに決める。
7月 7日 勝山に着き、新町の小野家離れに谷崎夫婦と娘が入る。
後に妻松子の妹2人、松子の従兄弟らも疎開して、近くの呉服屋2階に住む。「細雪」の執筆に取り組む。原稿の写しを野崎益子女史が頼まれた。
食料の調達には福谷の須田伸治郎氏の世話になる。
中町の呉服店水島喜八郎氏と深く交流した。
下町の醤油業河本はな氏とも交際した。
8月13日 永井荷風が谷崎を訪ねてくる。15日には帰る。(疎開日記より)
旦酒店さんから伺ったお話
勝山は水の綺麗なところで、昔は井戸水が綺麗だったので豆腐と酒を造っていました。酒屋も2軒ありましたが、今は辻さん1軒だけとなりました。それに宿も9軒ありましたが、今は寝泊りだけで2軒しかないのです。
谷崎さんが勝山に来られたときの姿は、ボロボロの汚い着物だった。それに、沢山の原稿の入った「こおり」を大八車に積んできて近所の旅館の土蔵を借りて荷物を入れたとのこと。また、谷崎さんは金が入ったら大盤振る舞いをしていたそうで、普段は午前中執筆、午後は奥さんと川沿いを散策していたそうです。
エピソード:小学校の教師になるために勉強していた野崎ますこさんは書が上手だったそうで、谷崎さんの書生を務めることになり、テストを受けたのですが、そのテストがユニークだったそうです。なんでも、奥さんとて書斎には上げないのですが、野崎さんを先に上らせ下からみて、足袋の白さ(足が綺麗かどうか)を見ていたそうです。勿論、野崎さんは無事合格して書生をつとめたそうです。(2012.5.10取材)
都わすれの記(2012.5.10取材)
勝山町は旭川の上流なる山峡にありて小京都の名ありといふ、まことは京に比すべくもあらねど山近くして保津川に似たる急流の激するけしきの嵐峡あたりの面影なきにしもあらざればしか云ふにや、街にも清き小川ひとすぢ流れたり、われらは休業中の料理屋の離れ座敷一棟を借りて住む、二階の六畳二間を書斎にあてゝ故帝鴻銘翁が短冊に書したる有 人對 月數 歸期 の七字を柱に懸けたるは、此の句恰も今のわが身にふさはしければなり、あゝわれ齢六十路におよびてかゝる邊陬に客とならんとは、げに人の運命ほど測り難きはなし
なつかしき都の春の夢さめて
空につれなき有明の月
まどの戸をあくれば入り来やまざとの
人に馴れたる雀うぐひす
美作三宮といわれる天石門別(あめのいわとわけ)神社は、社殿の後に滝があることから滝宮とも呼ばれています。創建は不詳ですが、社伝によると吉備津彦命が古代吉備の国平定のため西下した際、当社の祭神天手力男命(あめのたじかろうのみこと)の助けで平定できたお礼として、当地を選び、自ら祭主となって鎮斎されたと伝えられています。社地には、籠殿、拝殿、本殿が整っているうえに、古代祭祀遺跡「盤境」(いわくら)といわれる石積の塚も残っています。環境庁・岡山県(看板より)
主な祭典 10月第4日曜日 : 例大祭、4月29日 : 春祭、8月第3土曜日 : 八朔祭、美作市滝宮89(2012年11月23日取材)
秋のススキが美しい美作河井駅にて2012年11月10日・11日 恒例のスローライフ列車の旅が執り行われました。この日は小雨が降って撮影日和とまでは行きませんでしたが、それでも2日間で約300名のお客様で大盛況でした。地元市民による「手打ち深山そば」をはじめ、今年はなんとだんじりまで出ていて美作河井駅は賑わっていました。(取材2012年11月10日)2011年特集、2007年特集、2008年特集、2010年特集
2012年11月3日(土)「新野まつり」がありました。
新野まつり
作州三大まつりの一つに数えられる「新野まつり」は、新野山形の八幡宮を親神様として二松・天穂日・天津・天満神社の氏子たちが御輿をかつぎ、稲塚野の神事場に集まって豊穣の秋を祝い、新野郷すべての人々が喜びを確かめあい励ましあう一郷一所の大祭である。各神社の社伝は古く伝承行事もさまざまであるが、まつりの形態が今日のように郷土団結の様子を整えてきたのはおよそ室町期の頃であると推定されている。
素朴な農民の心が大切にされ、今日まで受け継がれていることは吾が町・勝北の誇りである。祭日十一月三日
2012年9月29日(土)☆午前10時から午後8時、おかやまファーマーズ・マーケットノースビレッジにて「第2回お月見会と竹灯籠」が行われました。(津山の観月際は台風の襲来で急遽中止となりました。)
「小さな善意の灯火がやがて大きな光りとなることを願いながら、秋の夕べをごゆっくりとお過ごし下さい。」お月見実行委員会より。当日は台風がやってくるとのことで、芝生広場から急遽建物の中ですることとなりました。大した風や雨の被害も無くて無事に済みました。お月見団子や抹茶セットをいただき、夕べのコンサートを聞きゆったりとした時間が持てました。
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福井八幡宮の参道入り口の道に面して、高さ1mに近い修験道信仰を物語る古びた石碑がある。修験道とは、山岳信仰を通して山の霊気にふれ、山の行場で心身を鍛え、呪術力を体得して、病気を平癒し禍(わざわい)を除くより現世的御利益を追及する信仰である。
この道を修める修験者は、いわゆる山伏(やまぶし)と言われ、白装束で金剛杖をつき法螺貝(ほらがい)を吹いて、山野をかけめぐった。彼らは概して情報に明るく薬草などにも博学であったため、民衆に受け入れられ、村民のリーダー的存在として活躍した。
石碑は、判読が難しくなっているが、次のように刻まれている。
明治六年癸酉 福井村
(梵字) 大峰役行者大菩薩
九月九日 講 中
これは、大和大峰山で修行し悟りを開いた、役行者(えんのぎょうじゃ)をたたえたものである。広く修験者に崇拝されている役行者とは、修験道の開祖の人物である。
2012年6月28日取材(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)