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取材記事内を検索ワード「社」で検索した結果,1117件の記事が見つかりました。

大崎神社(中原)

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大崎神社
由緒・沿革
 森家神明帳によれば、三條天皇の時代長和4年(1015年)11月に、前年、秋季より中原郷内に疫病が流行して死するもの多く、一年余りにして尚止まらず益々甚だしく、これを美作守源道方に訴えました。
 道方は当時宮内卿として美作守も兼務の折柄、宮内吏に崇神天皇5年、天下に疫病流行して止まらざるにより、翌年、和州笠縫の里に大国魂神、大物主神を勧請して三輪明神と崇めたら天下の疫病ことごとく治りました。
 この例を聞き、道方同年の貢稲100束をもって長和5年5月当郷に大国魂神を勧請して西大崎明神と、大物主神を勧請して東大崎明神と崇めたところ疫病がたちまち鎮止しました。
 以ってこの明神に不敬ある族は必ず疫病に懸かり、又は不幸に陥ると氏子大いに恐れまして厚く尊崇しました。

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丹後山の石仏ーおこり石伝承ー

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 日本に古くからある病気に「おこり(瘧)」という病気がありました。これは古代から知られており、「わらはやみ」とか「おこりやまい」などと呼ばれていました。定期的に悪寒・発熱などが起こる病気で、現在ではマラリヤ性の熱病と考えられています。
 このおこりを治す方法というのがさまざまに伝えられていて、たとえば石のコケやリンドウの花を煎じて飲むなどという療法が、伝承として残されています。また、こうした民間療法的なもののほかに、おこり石というものもありました。おこり石とは、霊験のある石に祈願しておこりを治すという呪術的な治療法です。これは各地に残されていますが、その一種と思われるものが丹後山にあります。
 それは石仏と呼ばれているものですが、今では訪れる人もなく、付近は荒れ放題になっていて、クマザサのやぶの端で斜めに倒れかかっています。この石仏は、他の地域でも見られるような地蔵などではなく、縦横一メートル五十センチほどの平らな石で、表に銘が彫られていますが正確には読み取れません。(上記地図写真:津山郷土博物館より)

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藤原顕輔 文学碑(総社)

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「過ぎつらん都のこともとふベきに雲のよそにもわたる月かな」 藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)
元永元年(1118)美作国守になった顕輔が若いころの介の位で美作国に着任、山国の名月に遠い都をしのんで詠んだ。顕輔は崇徳天皇の勅命で「詞花和歌集」を撰したがこの歌は「続詞花和歌集」に収録されていて名高い。
書は中原垂揚氏。神楽尾公園 昭和54年10月 設置

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最後の「第15回 あいあいまつり」

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2018年9月17日、つやまNPO支援センターの移転に伴い、津山市コミュニティーセンター「あいあい」で最後の「あいあいまつり」が開催されました。フォーラムでは、「NPO支援センターは、めまぐるしく変わる世の中で、新しい時代の架け橋の役目があったのだろうと思う。」など色々な団体の関係者の皆様が、この18年間を振り返ってお話されました。
平成30年10月1日には「津山市地域づくりサポートセンター」を市内大田のグリーンヒルズつやまリージョンセンター内に設置してオープン記念式典が開催されます。

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荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)文学碑

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「霧に花売の行く川の水はれてゆく」 荻原井泉水
俳誌「層雲」を主宰した井泉水(明治17年~昭和51年)は自由律俳句を確立、日本芸術院会員となり晩年は独自の俳画「草画」を描いた。この作品は昭和16年、津山を訪れ、いまも津山情緒になっている八出の花売り女を詠んだ。千代稲荷宮

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竹久雨町(たけひさうてい)文学碑

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「花の上に花現れて夜の城」  竹久雨町
雨町(うてい)(明治27年~昭和47年)は大正14年、山陽吟社を創立、俳誌「山彦」を創刊、半世紀近く郷土俳壇の糧となった。また「雲母」同人となり津山支社を設立したが、飯田蛇笏主宰の死に殉じて解散。勝央町出身。本名 豊。城南病院東 昭和55年11月 設置

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小原千座(おはらちくら)文学碑

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「なかなかに まきし垣ねはさもなくて そともの方に しげる なでしこ」 小原千座
千座(寛政5年~慶応4年)は江戸時代の豪農、立石家(二宮)の家系に生まれ徳守神社の神官、小原家の養子となった。幕末の歌人平賀元義が美作の名人30人の筆頭に挙げているように美作歌壇の開拓者としての足跡が大きい。三枚橋南 昭和54年10月 設置

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直 頼高 文学碑(文化センター)

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「おのつから あゆみもおそくなりにけり さくら花さく のべのかよひち」 直 頼高
美作三歌人の一人とされる頼高(安政6年~大正8年)は上之町、大隅神社の神主として梅の木に囲まれた「梅の下舎」で美作歌壇を指導、歌誌「水甕」主宰、尾上柴舟に歌の手ほどきをした。秋久家に老梅が残る「梅の下舎」跡がある。
薬研濠北

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塞の神(野村)

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2014年10月8日に津山老人福祉センターに集合して、「平成26年度 津山歴史講座 第7回(現地見学)大庄屋巡り―美作東部(加茂川流域)―美作の歴史を知る会 宮澤靖彦・多胡益治」があり参加して来ました。最初に野村の保田家に伺う為細い道路に入る手前に塞の神様が祀られていました。
塞の神
 塞の神は、「才の神」ともかく。もと境の神である。村の境や峠等に祀り、外部から侵入する悪霊を防ぐのが目的だった。
 この塞神三注は一般のそれと異なり、排仏毀釈の運動と関連がある。時代の動きに敏感で、国学に造詣の深い保田定静氏は地蔵を移し塞神を祀った。 塞神三注とは、久那斗神、まる岐神、道の神をいう

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美作東部―大庄屋巡り「光井弥太郎尚常」(河面)

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光井弥太郎尚常(河面村)
 河面村は勝北郡に属し、北は近長村、南は福井村である。正保郷帳では田方五百三十三石余・畑方三十四石余。森藩断絶後、元禄十一年から幕府領となり、寛政六年から文化十四年迄は播磨国龍野藩預地、文政元年以降は再び津山藩領となる。現在は津山市河面である。勝北は美作国北東部にあって中世末には勝田郡と称していた。慶長五年小早川秀秋が入封して美作七郡を十二郡に再編したとき勝南・勝北に分けたとと云わる。郡境が明確にされたのは慶長検地によってであろうと云われる。元禄十一年以降は勝南・勝北郡として定着し、明治三十三年に合併して勝田郡となって郡名が消えた。

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