さら山時代祭2018
津山市佐良山地区の出雲街道沿いで、第21回「さら山時代祭」が2018年11月11日午前9時から午後3時10分まで、佐良山小学校~種(津山市佐良山地区で3kmに及ぶ)で開かれました。後醍醐天皇配流時をイメージした時代行列(カキタニ古墳から洗顔清水まで)、屋台、ステージ、スタンプラリー、バザー等が人気でした。また、小学校体育館で行われたオープニング・エンディングイベントでは餅まきや、抽選会などが賑やかに行われました。
津山市佐良山地区の出雲街道沿いで、第21回「さら山時代祭」が2018年11月11日午前9時から午後3時10分まで、佐良山小学校~種(津山市佐良山地区で3kmに及ぶ)で開かれました。後醍醐天皇配流時をイメージした時代行列(カキタニ古墳から洗顔清水まで)、屋台、ステージ、スタンプラリー、バザー等が人気でした。また、小学校体育館で行われたオープニング・エンディングイベントでは餅まきや、抽選会などが賑やかに行われました。
作楽神社案内(明治2年11月27日創建)御祭神 後醍醐天皇・児島高徳(旧社格県社)
由緒:元弘2年(1332)北条幕府のために隠岐に流される途中の後醍醐天皇がこの地にお宿りになり、児島備後三郎高徳が桜の幹を削って「天勾践を空しうする莫れ、時に范蠡無きにしも非ず」と記して天皇をお慰めした故事により、貞享5年(1688)津山藩森家の執政長尾勝明が顕彰碑を建て、のち、松平家の家臣道家大門らの努力によって神社が鎮祭された。境内地は約1万坪、鎌倉時代の守護職の館であった。大正11年、「院庄館跡、児島高徳伝説地」として国指定の史蹟となった。社宝の太刀(銘、来国行)は、国指定の重要文化財である。境内神社:護桜神社・水神祠(平成11年11月鎮座130年記念)(文:境内案内より)(2018年4月29日撮影)
地蔵の前に3っの石塔があり、左の自然石には、正面に南無阿彌陀仏、享保11年(1726)年○月とあり、徳川吉宗の時代に建てられたと思います。右の石碑は、正面に奉納大乘妙典六十六部、右に、文化6年(1806年)2月とあります。六十六部とは、虚無僧のことで行者です、この行者が、地蔵を寄進したのではないかと推察できます。
昔からの言い伝えによると、後醍醐天皇が、この地を通られた時、夜泣きする赤ん坊の泣き声を耳にし、地蔵を作って祀るように、住人に伝えたのがきっかけで作られたと言われています。【津山朝日新聞社より】(文:大崎地区歴史を考える会発行『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)(2018年2月25日撮影)
川上音二郎が津山に来たころは意気さかんなときで、洋行帰りとして「オセロー」を上演したりしていたが、彼は一面で皇室を中心に忠誠をつくすという日本人の典型的な人物でもあったから、忠臣「児島高徳」に興味をもって、自分の演劇にも生かしていた。津山に来る動機もこれに関連がある。大津楼の津田正気が知人でもあって、一度は津山へという話ができていたこともあったらしい。一行は津山では当然に「児島高徳」を上演したが、川上の高徳はミノをつけていないのが特徴、貞奴が後醍醐天皇にふんして登場したりした。
川上は興行のフタあけ前に作楽神社に参拝したのだが、自分が思っていたよりは寂しい構えなので、内心驚いた。何とかしたいと津田に相談をもちかけ、結局、個人として拝殿と社務所を新築して寄贈したいと決心、当時作楽神社は県社であったから、県へ申請の必要があり、少しおくれて3月に岡山に行ったとき申し出ている。もちろん県ではありがたいこととして受け、作楽神社では7月に工事奏上式地と鎮祭をした。そして拝殿と社務所が川上音二郎の寄付ででき上がったのだが、落成式は41年春の大祭日である4月22日。このときは川上は参列できなかったので、こもかぶりの酒樽をお祝いとしておくっている。川上が自分で寄付した建て物を見に来たのは44年(1911)9月3日、やはり再度津山で興行をし、同時に座員一同をつれて参拝している。
「太平記」と児島高徳 児島高徳は忍びの頭だった。
「天莫空勾践 時非無茫蠡」(天勾践を 空しゅうする莫れ 時に茫蠡 無きにしも非ず)
児島高徳は、後醍醐天皇宿泊の院庄の館に忍び込んで、このように読む十文字の詩を桜の木をけずって書きました。
これはその昔、中国で茫蠡と言う家来が、敵にほろぼされかけた勾践という王を大変な苦労のすえ助け、国を再興させたという物語を例にして、こういう忠義な家来もいないわけではありませんよと、天皇を励ましたものです。中国の古典に詳しかった天皇は、これを見てほほえまれたといいます。
明治に新劇を始めた川上音二郎らによって、これが芝居として演じられて評判となり、院庄と高徳の名前は、広く全国に知られるようになりました。戦前には、高徳は楠正成と同じ忠義なさむらいとして、教科書にもとりあげられ、文部省唱歌にもなりました。
学者のなかには、高徳は、『太平記』の作者のつくりばなしであるとか、『太平記』の作者ではないかという人もいれば、瀬戸内の海の武士団であったなどさまざまな見方や意見がありました。『太平記』に何か所も記述されている高徳は、何物であったのでしょうか。
近年は、地域の歴史が見なおされ研究がすすんできています。関連した人物の資料やさまざまな史実から高徳は、実在の人物であったことがはっきりし、児島あたりの山伏をひきいる忍びの頭であったと、されています。
2017年11月12日津山市さら山地区一帯で「第20回 歩いてみんちゃい さら山 さら山時代祭」がありました。毎年行われる時代祭は雨で泣かされることもしばしばでしたが、何とか天気ももって午後には日差しもあり、ウォーキングするには好都合でした。カキ谷古墳~洗顔清水の約3.5kmですが、歩いているのは年配者が多かったようです。周囲の景色を愛でながらウォーキングをすると健康的かつロマンを感じまう。また、お腹いっぱいで良い事ずくめでした。さら山地区の皆様お世話になりました。
(2009年・2011年・2012年・2013年・2014年・2015年・2016年・2016年隠岐帝祭を訪問)
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津山市種地内県道449号線沿いに、後醍醐天皇が隠岐へ配流の際に立ち寄り洗顔したことから「洗顔清水」と呼ばれる所があります。そのすぐ上の道沿いに観音様がおられますが、いつ行っても綺麗なお花が供えられていて地区の人々に大切に祀られています。(2015年11月11日撮影)
噫忠義桜十字詞之碑塔 (前回取材:「作楽神社」と後醍醐天皇)
戦艦大和の建造者である海軍技術中将庭田尚三を会長とする忠桜会が、昭和46年4月18日に建設したものである。表面に「天莫空勾践時非無氾范蠡」と、後醍醐天皇御製二首および斉藤監物の七言律詩「題児島高徳書桜樹図」を、裏面に道家大門の和歌二首を記してある。(文:現地案内板より)
道家大門(ひろかど)は天保元年(1881、旧暦天保元年11月18日が西暦1831年1月1日にあたる)12月10日津山藩士遠藤浦右衛門正利の四男として生まれた。幼名弥作、のち助十郎、順と名乗った。伯父にあたる同藩津田七太夫文行は藩の料理番を務めていたが、津田家の長男真一郎は学問修行のため廃嫡、次男鉄次郎は早逝したため、従兄弟の大門が養子となって津田家を継いだ。一時期津田弥作儲美と称していたが、津田の本姓が道家であることを知り、文久元年(1861)に道家と改姓した。その後料理番より進み、慶應4年(1868)に御刀番、明治維新後に作事奉行となる。同年藩より国学修行を仰せ付けられ、平田鎮胤(平田篤胤養嗣子)に入門した。
幻住寺(げんじゅうじ)由緒(2017年6月4日撮影)
昔、後醍醐天皇が幕府により隠岐島に流された。その道中、津山の院庄に一週間程滞在された。ある夜、夢枕に老僧が立ち、「私は西の方角にある髻山の僧です」といい、「ご落胆なさいますな」と励まし、「きっと救われましょう」といって消えた。天皇は翌朝目を覚まされ、供の者にこのことを話され、さっそく供の者を西方にあたる髻山(もとどりやま)に行かせたところ、古寺があり、昨夜の夢に出た僧が住んでいたという。(続きはこちらから)