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取材記事内を検索ワード「記念碑」で検索した結果,51件の記事が見つかりました。

因美線 三浦駅

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三浦駅(みうらえき)は、岡山県津山市三浦にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)因美線の駅である。(2015年5月15日撮影)(前回2010年の取材はこちら
1963年(昭和38年)4月1日 - 地元の要請を受けて日本国有鉄道(国鉄)因美線の駅として開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。
築堤上に単式ホーム1面1線を持つ地上駅(停留所)で、津山方面に向かって左側にホームがある。棒線駅のため、津山方面行きと智頭方面行きの双方が同一ホームより発車する。トイレあり。
津山駅管理の無人駅で、駅舎はなく待合所があるのみ。直接ホームに入る形になっている。なお、自動券売機及び乗車駅証明書発行機はない。(文:ウィキペディアより抜粋)

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22世紀の森(加茂)

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 我々加茂町民は、自然より与わった大いなる恵みを受け継いでいく意志を、天地に示すため、ここに「二十二世紀の森」を設置することを決定しました。大木の生い茂る美林を、二十二世紀に向けて保護、育成していくことは豊かな森林資源に育まれてきた我々町民の果たすべき使命であると考えます。その姿勢を世界に示すため、ここ高鯨の直営林二〇ヘクタールを、「二十二世紀の森」と定め、西暦二、一〇一年まで保存することにしたのです。これは森林の重要性が様々な面から認識され出している近年の動きを先取りするパイオニアプランとなるでしょう。
 自然との調和なくして、人類の未来はなく、地球滅亡を招くのみです。我々は時代の先駆者として、地球的視野に先立ち、自然保護の理念を、ここに高らかに掲げます。 平成二年五月(文:石碑より)

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八坂神社(近長)

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由緒 創建は弘仁十二年(821年)である。牛頭天王を奉祀(ほうし)している。明治元年に八坂神社と改称した。
主祭神 素戔嗚尊(スサノオノミコト)、例祭 10月22日、境内地 823.80坪、主要建物 本殿・幣殿・拝殿・神楽殿、宮司 豊田元留、責任役員 甲田寅夫 甲田三郎 今田鶴一 甲田頼光(文:岡山県神社誌より抜粋)2014年10月8日取材

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神田 旧徳守神社跡地と徳守塚

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神田 旧徳守神社跡地と徳守塚 (2015年5月2日取材)
その昔、徳守と言う名前の徳の高い人が、旧小田中村で行き倒れとなり、近隣の小原家の先祖が手厚く看病したが、看病の甲斐無く亡くなってしまった。そこで小原家が徳守塚として祠を作り埋葬したとされています。その場所のほど近く現在は宮脇町にある徳守神社が祭られました。この場所は現在の神田公会堂東側の竹藪の中で、森忠政が津山の総鎮守として現在の位置に移るまで祭られました。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)

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統合井堰(草加部)

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 成名地区は加茂川が平野になる扇状地の要のところに位置している。
加茂川にはたくさんの井堰があり上流からいえば桜橋の上手の野村井堰、桜橋下流にあった牛の子井堰、本郷橋の上手にあった福井井堰など多くの井堰がありましたが、昭和50年頃どの井堰も全部取り除き龍ヶ爪のところに統合井堰が作られ、津山市上水道に一日2万5千トンの水を分水してこの統合井堰から津山市東部地区の上水道用の水を取水するようになりました。この取水ができるまでには、多くの関係者の知恵と多額の費用がかかりましたが、5つの井堰(野村、福井、牛の子、才勝、大井手)の農業用水路は地下方式(パイプライン化)となり、各田んぼでいつでも水が取れるようになり、大変便利になりました。(文参考:むかし高野)2015年3月16日、4月2日取材

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谷崎潤一郎 歌碑建立 除幕式

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2013年9月23日(月・祝)11:00~ 「谷崎潤一郎の歌碑」建立式典がありました。
この度、切なる思いで暖めてきました「谷崎潤一郎の歌碑」建立が実現の運びとなりました。 この歌碑は、歯科医で当館代表の豊福恒弘氏によって建立されるものです。
歌碑は谷崎潤一郎が疎開中に散歩をして歌を詠んだ吉井川沿いの歩道(今津屋橋北西の歩道沿い、アルネ入口交差点)に設置されました。

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寂静山 教本寺跡(下高倉西)

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寂静山 教本寺跡
 下高倉西二区公会堂から北北東に約200mのところに「宗祖見眞大師650回忌法要記念碑」がある。この道を隔てた北側が教本寺の跡地である。寂静山教本寺は天正2年9月(1574)に真言宗備永寺として建立された。
その後、享保14年(1729)、備前守右近正広入道の時代に浄土真宗に改宗された。明治26年、12代導隆のときに本堂が再建され、13代導徹も引き続き寺院の整備につとめ門徒数も増加した。当時お寺の縁日には地元の高倉をはじめ、遠方からも大勢の参拝者が続き賑わっていた。

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福井 輝かしい修行記念の修験道石碑

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 福井から大崎方面にぬける県道べりに、土居の公会堂があるが、その公会堂の道を隔てた西側の一区画は、真宮神社の鳥居や、よく手入れされた花壇・樹木があり、小公園らしくなっている。その場所の北側一隅に、次のような文字の修験道に関わる輝かしい修行記念碑が見られる。
(梵字)大峰山三十三度供養
    先達 安藤栄治郎
明治5年 壬申歳  世話人 安藤頽蔵
  8月 吉祥日    同   安藤與平
 この趣意は、修験道修行のため大和大峰山の登り続けた先達の安藤栄治郎が、ついに満願供養の33度の偉業を達成したことを讃え、安藤頽蔵と安藤與平が世話人となって、明治5年(1872年)8月の日柄の良い日にこの石碑を建立し、供養にしたと解せられる。
 奈良県吉野から大峰山は、古来よりの修験道修行の聖地である。
 7世紀末、修験道の開祖役行者(かいそえんのぎょうしゃ)はここを修行の地と定め、巨大な磐座のある金峰山(山上ヶ岳=1719m)で、苦行の末に金剛蔵王権現を感得したと伝えられている。以来、現在に至るまで、修験道修行の本場となっており、江戸時代のころから一般庶民も講を結んで登山するようになった。講の先導や世話役にこの先達が活躍した。

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河面 国分寺台地を潤した牛の子用水

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2012.4.21
 牛の子用水は、河面地域にある水田の灌漑用水であるが、かつては、河辺地区の国分寺台地の水田を潤していた。楢にかかる桜橋の約200m下流にある加茂川牛の子渕から取水し、近長~河面~河辺井ノ口~国分寺~瓜生原と、延々およそ7,500mに及ぶ、近郷まれに見る長大な用水路であった。
 国分寺に至るこの用水路は、明治8年に着工し、村中総動員の突貫工事で、明治9年の(1876年)5月に竣工し通水を見た。当時、勝南郡国分寺村・瓜生原村は、池水や天水に頼っていた高台のため、水不足になやみ度々干害を受けた。地租改正令の実施に伴って年貢米から現金によって定額の地租を支払うようになったため、干害の被害は重大であった。関係者が協議を重ね、近長・河面村の協力支援を受けて、この大工事に着手したのであった。今も、これを記念して「明治新渠之碑」という記念碑が、国分寺境内に残されている。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)

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広野小 井上周平先生の頌徳碑

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広野小 井上周平先生の頌徳碑(2012年1月9日・14日)
 広野小学校正門のそばに、松本譲(ゆずる)先生の頌徳碑(しょうとくひ)と並んで井上周平先生の頌徳碑が建てられている。戦後の混乱をようやく抜け出した昭和31年(1956年)に建立された。
 高さ3.6m、近辺では珍しい青石の立派な碑石に、82歳河内貞介謹書とある。裏面の碑文には小原貞次撰文・頼本孟書とある。文字・文は、いずれも広野村の当時ゆかりの教育者であった人達の手によるものである。

 井上周平先生は、慶応2年(1866年)出生、地元福井の出身であり、広野小の前身である明知小学校の卒業生であった。碑文には、大阪府の山本塾にて漢学等を学んだ後、明見・致志(広戸村)の小学校を経て、明治23年(1890年)出身校に出身校に勤務したとある。
 松本譲校長先生退職後の3ヶ年間は、2代目校長役で経営に当たるなど務められ、太正12年(1923年)勇退されるまでの期間、実に33年間、広野小学校の重鎮として多くの学童を育てられた。戦前の広野小学校の校歌も、この井上先生の創作であった。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)

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