小田中奥田中の荒神様
小田中の由来は田中郷からです。『和名抄』(わみょうしょう)には、田中郷は苫田郡七郷の一つと書かれています。当時の田中郷は、西は現在の筋違橋(すじかいばし)東の宮川まで、北は上河原から南の吉井川まで広い地域であり、城西通り一帯は河川敷であったと書かれています。田中の地名も田中郷に由来しています。
小田中・田中北部に荒神様があります。農耕の守護神として祀られています。今では地元の方7人程で年に2回ほど集まってお参りしておられるとか。(2015年5月9日取材)
小田中の由来は田中郷からです。『和名抄』(わみょうしょう)には、田中郷は苫田郡七郷の一つと書かれています。当時の田中郷は、西は現在の筋違橋(すじかいばし)東の宮川まで、北は上河原から南の吉井川まで広い地域であり、城西通り一帯は河川敷であったと書かれています。田中の地名も田中郷に由来しています。
小田中・田中北部に荒神様があります。農耕の守護神として祀られています。今では地元の方7人程で年に2回ほど集まってお参りしておられるとか。(2015年5月9日取材)
保田扶佐子さんの津山高校入学式の記念写真。
★岡山大学時代のエピソード「津山線にはゲーリークーパーがいた。」
その人は津山線の有名人だった。その頃、岡山にはミシガン大学があったそうで、ミシガン大学生を相手に似顔絵を描いて生活していたゲーリークーパーのそっくりさんで、自分であだ名をゲーリークーパーとつけていたそうです。常に英語の本を持っていて、その人に捕まったら英語で話さないといけなかったそうで皆で捕まらないようにしていたとのこと。昭和40~50年頃までいらっしゃったそうです。
寺院の縁起と開山
真言の教は、古く平安期の昔より美作の各地域に布教され、多くの人たちに心のよりどころとして信仰されていた。
伝によると元弘の頃(1331)、大井庄坪井の地には真言の教が浸透し、衆徒法悦、そして寺門隆盛となり、寺城の地に寺坊十二ヶ寺も存在していたと言われている。
その隆盛の姿は現在総門の跡と考えられる仁王堂、梅ヶ坪御堂、また寺向、寺奥等の地名が残り往時の寺院仏閣の壮大さが偲ばれるのである。
中世における度々の戦乱により、寺院仏閣は兵火を被り衰退したが、真言の教は人々の深い信仰により絶えることなく続いていた。
毎年7月30日午後7時頃より堂内で大般若転読法要、境内にて紫灯大護摩の祈願法要が行われる和霊大明神は厄除けの神として、また願い事は必ずかなえてくれると言う津山地方で名高い神様で、祭神は伊予の宇和島藩の家老で仙台藩主伊達正宗の子秀宗に仕えた人で、山家清兵衛公頼公(やんべせいべいきみよりこう)である。
若宮神社は茅町の町内神で、西寺町との区分である旧道にある。この通りが最初吉井川の土堤であった。境内には樹齢四百年という椋の大樹がある。
石柱には元禄13年(1700)再建と刻まれている。「若宮」は先祖や非業の死をとげた人を祀ることにはじまった。
境内に若宮神社のほかに亥子神社、穂近神社、恵比丘神社、多賀神社、愛宕神社が並ぶ。
この神社は嘉永元年初春に西今町の人山手屋江原市右衛門が高倉稲荷大明神として建立し祭祀したが、故あって嘉永3年に徳守神社の境内末社として遷祀されました。しかし翌年再び此の地に祠を建て新高倉稲荷神社と号し西今町の守護神として150年の長きにわたり祭祀されています。 例祭...夏祭り 7月28日 秋祭り 10月28日
この近辺で義人を祀る神社というのは珍しいと思われる。安岡町の義信神社は渡辺藤左衛門義信という義人が祀られている。もと安岡町と茅町は津山の城下町になっていなくて城下町に比して重税に苦しんでいたと云う。元禄の頃安岡町に渡辺藤左衛門義信という浪人がいて町民の為に藩に直訴した処、願いが聞き届けられて城下編入が実現した。しかし、直訴は法度であり、義信は処刑されてしまう。町民は藤左衛門をあわれみ、その義挙を徳とし祠を建て神と崇めた。それが義信神社である。今も安岡町の人々はこの宮をあつく敬い、夏と秋にねんごろに祭祀を行っている。(文:つやま城西まるごとまち自慢より)
お花の宮は、正式には「お花善神」です。むかし、勝間田(今の勝央町)にお花という美しい娘があり、津山藩森家の重臣原十兵衛の屋敷に行儀見習いの奉公にあがりました。
利発で性格がよく、十兵衛に信頼され寵愛されて赤ちゃんのお守りを命ぜられていましたが、ある時、ふと目を離した隙に赤児が縁から落ち、踏み石に頭をうって死んでしまいました。
お花の過失はどうしようもなく不運を嘆き悲しんだのですが、愛児を失った奥方の怒りは激しくお花を責めに責めて、とうとうなぶり殺してしまいました。
徳守神社 摂社「住吉神社社殿」〔平成17年津山市文化財に指定〕
社伝によれば、慶長九年、森長継公が津山城下の総鎮守として建立した徳守神社の元本殿とされています。その根拠として、この社殿の建築構造から建立年代を推定すると17世紀初期まで遡ることが出来ます。
現在同じ建築様式で現存している建物としては、八出天満宮本殿「寛永十四年(1637)」千代稲荷神社本殿「天和三年(1683)」〔いずれも津山市指定文化財〕があるが、これらと比較しても数十年は先行した建物と推定されています。
徳守神社 神徳の碑 (2015年5月2日取材)
徳守神社境内の北やや西よりに、末社の大国主神社がありますがその東隣りに円筒型の石碑がたてられています。この石碑に「県社徳守神社御神徳碑」と刻まれています。これは明治19年のこと、境内に土砂を入れてローラーでかためる作業が行われていましたが、当時の小田中村新田(今の小田中神田)の立石良次郎という人が、ローラー作業をしながら陰陽二柱神社の前に差し掛かった頃、誤って転倒しローラーの下敷きになりました。骨が砕け命を失うかと思われましたが、不思議なことに、身体が土中に埋もれ、かすり傷1つ負わなかったそうです。人々は皆、神様のご加護と感動し、このローラーの石を他に使うことを止め、徳守の大神様の神徳を称える碑として建てられたということです。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)