アルネが出来る前の吹屋町界隈の写真
吹屋町
寛永2年(1625)に、瓜生原村と金屋村から移住した鋳物師によって成立したとされる町である。江戸時代前期の様子を伝える絵図では鋳物師町と記載されているものもある。吹屋とは鋳物師の別称で、この町に住む職人によって、美作地域の多くの寺院の梵鐘が鋳造された。また、日常的には、鍋・鎌の修繕なども手がけていた。(文:津山まちづくり本舗 津山城下町まちなか お社巡りより)(写真提供:中山須美子さん)
吹屋町
寛永2年(1625)に、瓜生原村と金屋村から移住した鋳物師によって成立したとされる町である。江戸時代前期の様子を伝える絵図では鋳物師町と記載されているものもある。吹屋とは鋳物師の別称で、この町に住む職人によって、美作地域の多くの寺院の梵鐘が鋳造された。また、日常的には、鍋・鎌の修繕なども手がけていた。(文:津山まちづくり本舗 津山城下町まちなか お社巡りより)(写真提供:中山須美子さん)
「第16回昔なつかしひなまつり」が真暁会館(灘屋旅館向い)であり行って来ましたよ~。江戸後期から現代に至るまでの沢山のお雛様や泥天神がずらりと並んでお出迎えしてくれました。一番古いものでは嘉永2年のものもあり全国から集めたといわれるだけあって珍しい人形やお雛様に感激しました。期間中はいつでもオープンだそうです。 4月1日(土)・2日(日)には記念イベント(お茶席・たい焼き・わた菓子・ポン菓子など)もあるそうです。また、取材させていただいた日にはあたたかい飲み物と茶菓子を頂きました。主催は本田義昭・勝田観光協会・真加部老人クラブ「真和会」です。(取材:2017年3月18日)
2016年3月22日、インターンシップで鏡野から津山市内の高校へ通っている高校生をお引き受けして城東地区を巡ってきました。感想に「普段はなかなか歩く機会のない城下町でしたが、ひとつひとつ丁寧に見たり、いろいろな方と話をしたりしながら歩くと、いつもは何気なく車から見ていた景色とは別の視点で見学することができました。また、何も知らずに歩くより、各地の説明を聞きながらめぐる城下町はひと味違う雰囲気でした。」と嬉しいレポートを残してくれました。
※平成25年8月7日、文部科学大臣から重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
明治33(1900)年から昭和37(1962)年津山市南新座に生まれる。
本名は齋藤敬直(さいとうけいちょく)。33歳の時、歯科医だった三鬼は患者達のすすめで俳句を始める。この時から使用したペンネームが「三鬼」で「サンキュー」をもじったものといわれている。
35歳で代表作の「水枕ガバリと寒い海がある」を発表し新興俳句の有力な作家として認められたが、戦争一色となる社会情勢の中で、新興俳句は内容が革新的であることにより弾圧をうける。
終戦後、俳句を再開した三鬼は、近代文学としての俳句の可能性を求め、俳句の復活を志した山口誓子とともに昭和23(1948年)「天狼」を創刊するなど俳句の復興に尽力。また、敗戦直後の混乱した時代に俳人が俳句で生計を立てていけるようにと現代俳句協会を創立。句集として「旗」、「空港」、「夜の桃」、「今日」、「変身」がある。
(掲載されている写真・文章等の著作権は津山瓦版または情報提供者に帰属し、一切の無断転載を禁じます。)
2017年3月5日「津山城下町雛めぐり」の中で城西地区で行われる「城西雛めぐり」に行って来ました。
当日は朝から大勢の老若男女が「作州民芸館」につどい楽しそうに鶴山桜太鼓の演奏に聞き入っていました。小さな子どもが太鼓に合わせて踊っている姿や賑やかな声がして微笑ましいです。無料ふるまいの豚汁に舌鼓を打っている方や、作州民芸館内ではコーヒーなどの飲み物や東高校生の作ったパウンドケーキ販売がありました。また、年配者のカメラマンが多かったのに驚きました。
大庄屋中島家跡 津山市東一宮(現中島遊園)
ここは藩政時代の「大庄屋中島家累代の屋敷跡」である。初代中島孫左衛門は戦国の末期にここに住み、領主宇喜多氏に禄仕した。関ヶ原の戦いに敗れ宇喜多氏除封の後、武を捨て、営農に励み、森・松平両候のもとで大庄屋となり270年の間、その職を世襲し、農村の発展民利の増進の実を挙げ郷土繁栄の基礎を築いた。
その担当地域は、一宮構と呼ばれ東一宮・西一宮・大田・籾保・上横野および下横野の6ヶ村で、ここが支配の中枢であった。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年2月19日撮影)
無量山 極楽寺のカヤ(イチイ科)
所在地:加茂町宇野・所有者:極楽寺・目通り周囲:4.5m・樹高:28m・推定樹齢:380年
県道加茂寺元線より西へ150m行ったところにある極楽寺は、元禄年間(今から約280年前)に当地宇野に移り、新御堂山 極楽寺と称された。本樹は当時の創設以前から生育していたもので、幹は地上8mのところから双幹となっている。過去雷の被害を受けたこともあり、昭和30年までは雌木もこの近くにあったが伐られ、現在あるのは雄木だけである。(文:『津山の名木百選』より)(2017年2月25日撮影)
寺史略伝 (出典・・寺内古文書・苫田郡誌 他)
本尊 地蔵菩薩(木像 坐像 厨子内) 内仏(位牌堂) 薬師如来(木像 坐像)
清和天皇の御代、貞観2年(西暦860年頃)天台宗の開祖 伝教大師の弟子天台宗第3世座主 慈覚大師円仁が唐より帰朝、巡錫のみぎり美作地方に48ヵ寺を建立された。多福寺はその1つであると伝えられている。
応永年間(1390年頃)住職覚円は学徳共にすぐれ、寺門おおいに繁栄し山内の数房あり、安養房、林房、竹本坊、大門、総門、鐘撞堂などの地名や呼称の地が存在しているところから、この頃の多福寺の位置は現在の「奥谷」よりまだ奥で、横野の滝近くの地にあり、大寺であったことが想像される。
寛永年間(1602年頃)丹純和尚の頃更に寺門興隆したと言われている。(撮影2016年6月26日)
宇喜多秀家が岡山城の象徴に建築した三層六階建ての望楼形天守閣で、城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた時期の構造的特徴を伝えていました。城主の権威を象徴する書院造りの居間(城主の間)が設けてあり、初期の天守閣の性格を物語っています。昭和20年の空襲で焼失しましたが、昭和41年に再建され、城主の間も復元されています。
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津山市下横野 多聞寺
多聞寺は、平安初期(西暦860年)に開祖された毘沙門天をお祭りするお寺で、当初は下高倉の寄松にありました。しかし、中世の山名・赤松の兵乱で兵火にかかり焼失しましたので、香々美の藤屋に避難しました。下横野の現在の地に再興されたのは、それから半世紀あまり経った西暦1500年以降で、盛衰を繰り返しながら今日に至っております。
一宮大規模農道から下横野を望むと、一面に田園の広がる果ての、小高く白一直線の塀の中に多聞寺は、楼門・庫裏・客殿・本堂が調和よく佇んでいます。背後に中国山脈を控え、青空が広がるスケールの景観は、人々に故郷の安らぎと叙情を偲ばせることでしょう。