工房 咲季主催 押花作品展 2018
2018年11月2日~4日まで沼のくらやアートホールにて工房 咲季さん主催の押花作品展がありました。細部に至るまでお花を愛おしく思いながら作品作りをしておられることに感激しながら拝見してきました。
「四季の花々に魅せられ、さまざまな押花額に挑戦し作品作りをしました。津山市立西中学校アート&クラフト部の皆さんとふれあいのなか、生徒さんたち初めての押花額も ごゆっくりとお楽しみください。」とのことでした。(2018年11月3日撮影)
2018年11月2日~4日まで沼のくらやアートホールにて工房 咲季さん主催の押花作品展がありました。細部に至るまでお花を愛おしく思いながら作品作りをしておられることに感激しながら拝見してきました。
「四季の花々に魅せられ、さまざまな押花額に挑戦し作品作りをしました。津山市立西中学校アート&クラフト部の皆さんとふれあいのなか、生徒さんたち初めての押花額も ごゆっくりとお楽しみください。」とのことでした。(2018年11月3日撮影)
美咲町原田の町中央総合体育館南側広場で10月31日~5日まで大菊花展が開かれているとのことで最終日にお邪魔してきました。美咲町の町花・菊を展示する「美咲町大菊花展」は、主催する菊花の会が栽培を指導した中央中学生の作品も展示されていました。色々な色・形・大きさなど様々な菊が展示されていて、花が大好きな者を大いに楽しませてくれました。(2018年11月5日撮影)
義人堀内氏 頌歌
一、むかし元禄11年 城下にせまる数千人 半切すがたなわの帯 堀内三郎工先頭に
二、村の苦しみ身に背おい 兼田河原に花と散る 義人の心とこしえに 天にもひびけ仰ぎみよ
三、ああ三百年星うつる 芳烈かおる顕彰碑 わが里人に語りつぐ 正義の誇り心意気
極楽寺略縁起
美作国小桁山極楽寺は天台宗延暦寺の末寺であります。
当山は文徳天皇御宇天安二年(西暦858)、極楽寺の開祖天台宗第二の高祖慈覚大師円仁が西國行脚の砌、当山の民家に止宿せしめたまう。
覆う事三日三夜、しかる間に雲中に阿弥陀如来光明赫として左右の大士こと光を放ち、此の山の絶頂の影に向いたまいて大師遙拝して不思議かな云々。
本堂阿弥陀堂は山頂にあり堂跡(堂屋敷)なおあり、山の頂を安養の峯と稱し、北の谷を成仏谷、南の谷は不老谷、山を於桁と云う寺を極楽寺とす。
本堂の周囲には、観音堂・虚空蔵堂・大子堂・鐘楼・寺坊・十二院、一町東に二王大門あり。
過ぎし七百年以来の災難で坊舎を失い埋没して、残る所の四ヶ寺は、藤元坊・久保之坊・西之坊・極楽寺であり云々。
中略
備前岡山の城主宇喜多直家は、花房助兵衛職秀(もとひで)をして荒神山に城を築かせ職秀城主となる。職秀は日蓮宗の強信者であるため極楽寺の僧豪顕に日蓮宗えの改宗を強く迫ったが、豪顕は可とせず拒否しました。
職秀怒りて僧豪顕を追放し寺を取壊その用材を持ち帰えりて人馬の住家にと工事は進みましたが、完成を目前にして無風の時にも拘らず倒壊し人馬の多くが損傷する所となる。その後荒神山城は廃城となる豪顕帰えりて一字を営む。
後法孫円慶帰えりて荒廃した堂を修復す。本堂、千手観世音菩薩をもって本尊となす。脇侍不動附釈迦地蔵、毘沙門、荒神の像を安す。
「美作圀久米南條郡小桁山極楽寺 本尊千手観世音略縁記 住法明院」による。
新善光寺にある巨白庵の墓碑に次のような文がある。
先生諱文水三箇尻氏號巨白庵豊後大
分郡入蔵邨人考日貞輔先生其第三子
也幼入禅門天保定住播磨三日月邨慶
雲寺嘉永三庚戌歳退隠美作東南条郡
野村吟花嘯月以自娯旁以句讀習字教
先生の名は文水、号を巨白庵といい、豊後大分郡入蔵村の三箇尻貞輔先生の第三子である。幼少のころ禅門に入り天保年間に播磨三日月村の慶雲寺に住んだ。嘉永三年に寺を退去して美作東南条郡野村に住み、漢詩や歌を詠み、習字を教えたと記している。
この文によると、巨白庵は嘉永三年(1850)に野村に来た。彼の前任の初代講師半仏道人は三年ほどで帰国したとすれば、村塾の開設年は「成名校沿革について」の文政末期より一六・七年後の弘化四年(1847)か嘉永元年(1848)であることになる。このとき文化十二年生れの保田平兵衛は三二・三歳、細岩井手の開鑿に取り掛かる安政元年の七・八年前であった。
巨白庵について付け加えておく。
嘉永三年(1850)野村に来たと墓碑にある。平兵衛の招聘によって塾の教師になったと思われ、以後「一四・五年間」も教えた後出雲へ行くが、塾の門人の要請により明治二年(1869)また帰って教師を続けた。
山西に水源がなくて困った頃の話である。水田は、ほとんど天水田であった。天水田というのは、自然の雨水をためて耕作する田んぼのことである。特に寒い時の水をためて大事にしとくのである。寒水、雪どけ水は、大へん珍重せられ、夏水にくらべて水のもつ力がつよく、たんぼをまもる力がつよいといって大事にされたものであった。天水田以外は山雨川―蟹子川の流水があったがこれとて川といっても名ばかり、よその溝位のものであった。夏には水がかれて、かんがい用には余り役にたたなかった。
私の小さい時、冬の日に母が水車へ行って米を搗いて来たのをおぼえている。夏場は川の水は朝から翌朝まで、たんぼのかんがい用水として水車をまわすわけには行かなかった。夏の日、冬ためづきした「寒搗き米」でご飯をにてたべていると「スイ」くて変な味がしたが仕方なく文句も言わずに食べたものだった。また、たんぼも天水がだいじで、あぜを特に強くして、槌でたたいてむくろ穴をふせぎ、その上に泥を塗り、藁で日おおいをして更にもう一度泥をぬり水を一滴でも流さないように工夫をこらしたものであった。この天水田を「しる田」といって、夏も冬も水があった。
「佐保姫に合ふ靴をおく花の下」 白石不舎(しらいしふしゃ)
白石不舎(大正13年9月1日~平成24年2月26日)は西東三鬼に師事。以降、俳句教室や俳句結社「綱」を主宰。句集「作州」を発表。
三鬼の句墓碑や生誕地句碑を建立したほか、「三鬼顕彰全国俳句大会」「西東三鬼賞」「曲水の宴俳句会」の開催にも精力的に取り組み、直弟子として師の顕彰に努めた。
津山市出身。本名 白石 哲。津山文化センター 平成24年9月 設置
(文:『津山市文化協会創立60周年記念誌 津山文化』より)
日本に古くからある病気に「おこり(瘧)」という病気がありました。これは古代から知られており、「わらはやみ」とか「おこりやまい」などと呼ばれていました。定期的に悪寒・発熱などが起こる病気で、現在ではマラリヤ性の熱病と考えられています。
このおこりを治す方法というのがさまざまに伝えられていて、たとえば石のコケやリンドウの花を煎じて飲むなどという療法が、伝承として残されています。また、こうした民間療法的なもののほかに、おこり石というものもありました。おこり石とは、霊験のある石に祈願しておこりを治すという呪術的な治療法です。これは各地に残されていますが、その一種と思われるものが丹後山にあります。
それは石仏と呼ばれているものですが、今では訪れる人もなく、付近は荒れ放題になっていて、クマザサのやぶの端で斜めに倒れかかっています。この石仏は、他の地域でも見られるような地蔵などではなく、縦横一メートル五十センチほどの平らな石で、表に銘が彫られていますが正確には読み取れません。(上記地図写真:津山郷土博物館より)
「過ぎつらん都のこともとふベきに雲のよそにもわたる月かな」 藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)
元永元年(1118)美作国守になった顕輔が若いころの介の位で美作国に着任、山国の名月に遠い都をしのんで詠んだ。顕輔は崇徳天皇の勅命で「詞花和歌集」を撰したがこの歌は「続詞花和歌集」に収録されていて名高い。
書は中原垂揚氏。神楽尾公園 昭和54年10月 設置
友人から「今、川崎で赤白の彼岸花が咲いているわよ~。」との情報が入ったので、に川崎で咲く彼岸花を撮りに行って来ました。昨年も行ったのですが白い彼岸花の群生は過去の取材で数カ所しかなかったので、ここは今年も沢山咲いていて安心しました。又、鶴山より少し遅れて咲き出します。(撮影:2018年9月26日)