菩提寺のモミジと大イチョウの紅葉2018
2018年11月23日奈義町の菩提寺にモミジと大イチョウの木を見に行って来ました。
当日は曇りで少し肌寒い日でした。津山市内ではイチョウの葉は落ちてしまっていますが、菩提寺の大イチョウはまだ緑の葉があり驚きました。この日はイチョウのライトアップも終わりなので大勢の方が見に来ておられました。また、モミジの葉が綺麗に紅葉していてススキとマッチして美しく素敵でした。
2018年11月23日奈義町の菩提寺にモミジと大イチョウの木を見に行って来ました。
当日は曇りで少し肌寒い日でした。津山市内ではイチョウの葉は落ちてしまっていますが、菩提寺の大イチョウはまだ緑の葉があり驚きました。この日はイチョウのライトアップも終わりなので大勢の方が見に来ておられました。また、モミジの葉が綺麗に紅葉していてススキとマッチして美しく素敵でした。
光井弥太郎尚常(河面村)
河面村は勝北郡に属し、北は近長村、南は福井村である。正保郷帳では田方五百三十三石余・畑方三十四石余。森藩断絶後、元禄十一年から幕府領となり、寛政六年から文化十四年迄は播磨国龍野藩預地、文政元年以降は再び津山藩領となる。現在は津山市河面である。勝北は美作国北東部にあって中世末には勝田郡と称していた。慶長五年小早川秀秋が入封して美作七郡を十二郡に再編したとき勝南・勝北に分けたとと云わる。郡境が明確にされたのは慶長検地によってであろうと云われる。元禄十一年以降は勝南・勝北郡として定着し、明治三十三年に合併して勝田郡となって郡名が消えた。
保田市郎右衛門(野村)
野村は東南条郡に属し、東端を加茂川が流れ勝北郡近長村へ続く。東作誌によると慶長以前美作国七郡の時は北の草加部村を山形と称し野村を里方と呼んだ。慶長年中に郡を分けて東北条郡草加部村と東南条部野村に改称している。正保郷帳では田方二百九十一石余、畑方三十四石余である。森家断絶後も津山藩領として続く。
宇田川榕菴生誕220年記念イベント
歴代津山藩主へ珈琲献上と榕菴珈琲御朱印お披露目
江戸時代後期の津山藩は蘭学者(洋学者)を輩出し、明治維新へ向かう日本の近代化をリードしました。また当時最高峰の医学書を著した宇田川家に津山藩主は、出版費に充てるようにと助成金を贈るなど支援を惜しみませんでした。当時の津山藩主松平斉民(1814~91年)は将軍の実子であり、幕府に臆することなく蘭学を守り発展させました。
そうした津山藩主の庇護の下、才能を開花させた宇田川榕菴(1798~1846年)は植物学から原子、分子まで先駆的な研究を進め、数ある功績の一つとして「珈琲」という文字を誕生させました。
2015年10月27日(火)美作の歴史を語る会主催の新見研修会があり参加して来ました。
新見市立新見美術館を皮切りに新見市内を散策。新見は津山藩との縁も深い所なのでとても興味深いところでした。その様子を遅ればせながらアップしました。
当日は、新見御殿町まち歩きガイドの会の大西様にガイドいただきました。
放浪の陶工、鶴山は明治18年(1885年)津山に生まれ、2歳のとき、林田で開窯していた浅本房吉(旧姓杉崎)のもらい子になった。高等小学校卒業のころのちょうど13歳のとき、当時津山市二宮の窯へ移っていた父房吉から轆轤の手ほどきを受けたという。以後、淡路の眠平焼に行って修業を積み、さらに、兵庫県出石の「シケ場」へ。その後、伊部、明石の朝霧焼、稲見へ次から次へと、それこそ、轆轤一丁肩にかけ、ひょうひょうと、渡り歩くこと約十数年。しかも、その間、京都陶器試験場の場長の藤江氏の世話になったり、また、陶器学校で三年ほど仕事をしたりした。
明治44年(1911年)静岡県の賎機焼に行き、そこに腰を据えて約20年仕事をした。もっとも、その間、たびたび津山に帰ったし、また、昭和10年(1935年)には、福岡県赤崎焼へも行っている。二十五歳のころ、赤磐郡佐伯町から嫁をもらった。一応幸福な中年期を過ごしたが、突然、子どもが病死し、続いて妻も失い自暴自棄になった。
宇田川興斎旧宅跡 未指定(史跡) 北町8番地の7
津山市北町の城北橋の西詰の一角に津山市教育委員会が建てた解説板がある。ここが箕作家と並ぶ津山洋学のもうひとつの柱、洋学者宇田川家の四代目宇田川興斎の屋敷であったところである。この場所は、土地所有者本島大道より津山市が寄贈を受け、平成9年10月に整備された。興斎は文久3年(1863)から明治5年(1872)までのあしかけ11年間津山に住んでいた。この北町の屋敷の後、林田町に家を借りて住んでいるが、その場所は不明である。当時は明治維新前後の激動の時代であり、津山にいる間、興斎は東奔西走し、公私ともに多忙な日々を過ごした。
美作国万灯会(みまさかのくにまんとうえ)が2017年7月1日(土)執り行われました。
「万灯会」とは、夕方から夜にかけて、数多くの灯明をともして、仏様や御先祖様を祀り、御供養する仏教法要の一つです。今からおよそ1270年前の奈良時代744年(天平16年)に、東大寺の前身の金鐘寺(こんしゅじ)というお寺で、万灯を灯したのが、日本に於ける万灯会の始まりとされています。
津山に於いては、森忠政公によって現在の場所に建立された年の慶長12(1607)年、5月3日に忠政公の奥方、お岩の方が亡くなり、本源寺にお祀りされました。(昨年の様子)
2017年4月16日誕生寺で、日本三大練供養の一つ「会式法要」が行われました。この会式法要(二十五菩薩練供養)】は、元禄13(1700)年から続いており、日本三大練供養の一つに数えられ毎年4月第3日曜日に行われます。この法要は古く室町時代から始められ、正式名称は「法然上人ご両親追恩二十五菩薩天童迎接練供養会式大法要」です。会式の法会に御縁を結ぶと、厄病魔は去り、やがて臨終の暁には無苦大往生が得られると、全国各地より参詣されるそうです。(詳しくは、2012年12月26日の取材をご覧ください。)
大庄屋中島家跡 津山市東一宮(現中島遊園)
ここは藩政時代の「大庄屋中島家累代の屋敷跡」である。初代中島孫左衛門は戦国の末期にここに住み、領主宇喜多氏に禄仕した。関ヶ原の戦いに敗れ宇喜多氏除封の後、武を捨て、営農に励み、森・松平両候のもとで大庄屋となり270年の間、その職を世襲し、農村の発展民利の増進の実を挙げ郷土繁栄の基礎を築いた。
その担当地域は、一宮構と呼ばれ東一宮・西一宮・大田・籾保・上横野および下横野の6ヶ村で、ここが支配の中枢であった。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年2月19日撮影)