『クルマと過ごす日々』~元マツダデザイナー・中島美樹夫が描くクルマの作品展~
『クルマと過ごす日々』~元マツダデザイナー・中島美樹夫が描くクルマの作品展~がM&Y(棟方志功・柳井道弘記念館)で開催されています。2015年9月4日展示に先立ち、中島美樹夫氏がM&Yに来られたところを取材。その後、用事で津山に来られていた鈴木東京国立博物館館長も中島氏を訪ねてM&Yに来られ楽しそうにお話をされていました。
『クルマと過ごす日々』~元マツダデザイナー・中島美樹夫が描くクルマの作品展~がM&Y(棟方志功・柳井道弘記念館)で開催されています。2015年9月4日展示に先立ち、中島美樹夫氏がM&Yに来られたところを取材。その後、用事で津山に来られていた鈴木東京国立博物館館長も中島氏を訪ねてM&Yに来られ楽しそうにお話をされていました。
由緒 創建は弘仁十二年(821年)である。牛頭天王を奉祀(ほうし)している。明治元年に八坂神社と改称した。
主祭神 素戔嗚尊(スサノオノミコト)、例祭 10月22日、境内地 823.80坪、主要建物 本殿・幣殿・拝殿・神楽殿、宮司 豊田元留、責任役員 甲田寅夫 甲田三郎 今田鶴一 甲田頼光(文:岡山県神社誌より抜粋)2014年10月8日取材
鶴坂神社(大字坪井下字鶴坂1577番地) 2014年9月19日取材
往古より久米郡北部の産土神として美作國百十二社の一つで、大井庄、中北下村三ッ高山の山上に鎮座し、吉村宮と高の村宮の二神が祀られていた。社殿も壮厳で霊験も顕著であったので元暦年間(1184-1185)梶原氏は此の社を崇敬し武達長久の祈願の為寄進する。それ以後天下が源氏の下におかれてからの國主・領主の崇敬が続き寄進奉幣は常に絶えなかったと云われている。当社恒例の大祭には苫田郡小田草の神輿も参加するのが例となっていて、毎年四月の牛の市もにぎやかであったということである。
8月11日のお盆まじかのグラスハウス近くのサルスベリの花が綺麗に咲いていました。このサルスベリの花ですが、神社とかお寺によく植えてあるのですが何故か不思議になってネットで調べたら、「中国の伝説で、恋人と百日後に逢うことを約束した乙女が、約束の百日目の直前に他界、その死んだ日の後に咲いたという花、日本では元禄時代の園芸書「花譜」に、「紅花が100日間咲く」と説明があったので、"百日紅(ひゃくじつこう)"。
また、木の肌が滑らかなので、猿も滑ることから、"猿滑"とついた.木の肌を掻くとくすぐったそうなので"クスグリノキ"という別名もある。」だそうです。
日吉神社 大字宮部上
此の社の由緒は拝殿の額によると、祭神は大山紙神で、嘉吉年間、山名教清が岩屋城を築くに当たり、その部将を派して此の地に城塞を築き、近江の国坂本から山王権現の分霊を勧請して守護神としたのが此の宮の起元である。その後兵乱により城塞は失われ此の神社のみが山上に残っていたものを、江戸中期に至って此の地方の人が之を山麓に移し、本社にならい「日吉神社」と改めて今日に至ったものである。本社は元、官幣大社日吉大社で、全国3796の分霊社の一つであるというのである。
2015年5月28日の社会福祉法人 江原恵明会 救護施設 ニュー三楽園のバラの花です。
今年も行って来ましたが、毎年ぐんぐん拡大するバラ園です。職員さんにお聞きするとこれ以上広げたらバラのお世話ができないかもとお話し下さいました。
ここのバラは園生さんの作業療法の一つとして、栽培されているそうです。
匂いのあるバラには虫が寄って来るそうですが、トゲも 千差万別で、厚い手袋をしても刺さるトゲもあれば、全然トゲのないバラもあるそうです。2012年の取材はこちら
2015年5月18日の社会福祉法人 江原恵明会のバラ園です。
今年も見事なバラが咲いていましたよ~。ここのバラは種類も様々でバラの花もとても大きいのです。理事長さんが丹精込めて育てたバラと恵明会の建物がマッチしていました。
2012年の様子はこちらから。
協創LLPの中の1つのプロジェクト「NPO法人 英田上山棚田団」は、美作市への移住を決意された西口和雄さんが中心となって活動していらっしゃる団体です。西口さん達は岡山県美作市上山地区の耕作放棄地の棚田の再生をはじめ棚田・森林再生をベースにエネルギーに依存しないオフグリッド集楽を創造するべく活動を展開中です。「津山瓦版」として初参加したのは、野焼きでした。その後、何度か取材させていただいたのが、2012年2月の野焼き・高野誠鮮氏の講演・2012年上山神社で盆踊り・"たかくら塾"~地域づくり実践講座~・2013年上山神社の夏祭り・2014年上山神社・2014年上山神社の夏祭り・です。ここまで来るのには大きなご苦労もあったと思いますが、それでも未来に向けて走り続けていらっしゃる「NPO法人 英田上山棚田団」のこれからが楽しみです。(2015年8月8日取材)
当初、森家の重臣赤座主殿の屋敷神として城内にあったが、明治5年(1872)2月に、城内から京町に移され、現在は町内神として杷られている。
河川や海上安全を祈念する金毘羅神社は、吉井川の高瀬舟運行関係に従事した人々の信仰を集め、特に「金」の文字が付くことから商売繁盛の神としても信仰されている。
2015年4月14日取材