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菊水山 公卿寺(加茂)

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菊水山 公卿寺 (津山市加茂町公郷1309)
縁起
 当寺は公郷にあり、菊水山公郷寺と号し、聖観音を本尊とする天台宗比叡延暦寺の末寺である。
 『東作誌』によれば、開基は「貞観二丙辰年(貞観二年は庚辰-筆者)慈覚大師作州に台宗の仏寺を開かれし六十余ヶ寺の其一員なるべし」と推定している。明和年間(1764~71)に旧称水尾山真福寺の寺号を菊水山公郷寺と改めた。「東西百間余。南北百二十間余」の広い境内(『東作誌』)をもち繁栄したこの寺は、文化十二年(1815)には「漸く寺号を残して苧堂に等しき一宇を遺すのみ」(『東作誌』)と衰退していた。
 本尊聖観音像は、慈覚大師円仁(794~864)作と伝えられる(『東作誌』)一尺二寸の寄木造の木造仏である。また現存する三間四面の本堂および門は文久年間に建てられたものである。檀家は文化十二年(1815)に二百四十戸、現在二百五十戸である。寺の年中行事に、正月の日待祭がある。
本尊 聖観音、年中行事/正月 日待祭(「加茂町史」神社と寺院より)2012年8月22日取材

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青柳神社(津山市加茂)

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青柳神社
御祭神 天照大神荒魂 金山彦命 天日筒男命
例大祭 十月十日
中祭  春祭四月 夏祭七月 冬至祭十二月
由緒・沿革
 本神社の創建由緒は不詳であるが、古人伝え云ふ。
天平勝宝年中(749~56年)直金を掘収したが失敗し、片金山の柳神社に祈願したところ、金山彦命、天日筒男命を奉賽せよと告げられ、柳神社を相殿として宮殿を造り、社号を中山神社としたのが其の起源である云われている。
 又、美作六十六社の一社であり、寛文8年(1668) に再建したとも云われている。「作陽誌」にも中山神社とあり外に国司大明神が祭られていたと云ふ。
 其の後、明治6年(1874)青柳神社と改称し、同9年、金山彦命、天照大神荒魂、天日筒男命を合祀して村社に列せられた。明治42年に大字青柳内の水分神社、経津主神社、伊勢神社、滝神社を合祀した。大正2年、時の流れに依り、上加茂神社(現千盤神社)に合祀された。
 それ以前は現在地より上の段に双殿として奉賽されていた。現在の本殿は其の一つの宮殿であった。それ以来、遥拝所となり昭和24年再び旧宮山に遷座奉賽される。
 平成6年10月、本殿、拝殿等老朽化が激しく、敷地を新しく造成し、本殿の修復、上屋・拝殿を氏子の浄財寄進等により、造営する。
平成9年6月吉日 氏子中  (2012年9月20日取材)(文:案内板より)

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岡松山 福善寺(加茂河井)

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岡松山 福善寺(加茂町史より抜粋)

 当寺は河井にあって、岡松山福善寺と号し、古義真言宗(本山京都大覚寺)の中本山円通寺(鏡野町)の末社であり、本尊は薬師如来である。

 開基は不明である。寛政元年(1789)に堂宇は全焼し。同4年に再建した(『苫田郡詩』)

本尊薬師如来は坐長二尺五寸、脇立阿弥陀大師は二尺五寸で、いずれも作者不明であるが、文化十二年(1815)の『東作誌』に記されているものである。檀徒数は、昭和2年に75戸(『苫田郡詩』)。2012年9月20日取材(文:加茂町史より抜粋)

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龍王山 金剛寺(津山市西上)

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金剛寺は1000余年の歴史を持つ真言宗のお寺で、開祖は第三代天台座主の円仁阿闍梨(慈覚大師)。
円仁阿闍梨は、天台宗を開いた最澄の愛弟子であり、最後の遣唐僧として天台宗を完成させました。日本で最初に朝廷から「大師」の名を授かった人であり、日本各地に多数の寺を開山されております。そのうちのひとつが、龍王山 金剛寺です。
開山のいわれ 
金剛寺 第四世 玉林院宗盛法印により 延宝五年(丁巳)卯月朔日 記載
 今から約1000年ほど前に、貞観年中に比叡山第三世の僧、円仁阿闍梨という僧が、中国地方を行脚し、新野村 (現在の津山市 西上・西中・西下にあたる) に一宿されました。
 そのとき、ある主人から
  「この頃、山のふもとに光るものが出る」
ということを聞かされ、不思議に思って行ってみたところ、丈5寸(長さ15センチほど)の聖観音様がゆったりと石の上に立っておられ、そのそばに一人の翁が灯明を捧げておりました。
阿闍梨は「なにゆえここに居られるのか?」と問われました。
翁、答えていわく
 「この観音菩薩は、九ヶ月以前に辰巳のほうより一人の行者持ち来たり、利益のある菩薩から、これを護ってくださる人を待っておった。我はこの山の主、龍王なり。」といい、峰に昇り去りました。
 円仁阿闍梨は早速信者を集め、力をあわせて伽藍を建立し皆と共に信仰することとなりました。その寺を「龍王山 金剛寺」 と名づけ、神仏を祀り諸々の供養をしたりしているうちに、円仁阿闍梨は、再び諸国行脚の旅に出られました。
 その後、観音堂は月覚聖人、掘坂村の内村宗盛を経て、楠木氏後胤、大先達玉林院智観法印よりその子孫に受け継がれ続け、第十七世となる現住職まで続いている。(情報提供:龍王山 金剛寺)
龍王山 金剛寺 〒708-1221 岡山県津山市西上502
電話0868-36-5738/HPはこちらです。 (2012年10月2日取材)

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妙法山 経王寺(津山市下野田)

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 山号は妙法山、日蓮宗・日蓮宗津山妙法寺の末寺でした。『下野田誌』によれば、本尊は三宝尊・宗祖尊像です。天正(1573~92)のころ、宇喜多氏の老職をつとめた岡豊前守家利が植月中村(現勝央町)小山の堡(宮城城)に住み、元亀時代(1570~73)に討ち死にした親せきや家来の菩提を弔うため、京都の日蓮宗妙顕寺に請願して宮山城跡の下に寺を建立し、妙法山経王寺と号しました。そののち本寺を下野田村に移転しました。(勝北町誌「神社と寺院」より)2012年9月28日・10月2日取材

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城西まるごとフェアー2012

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2012年10月17日(日)10:00~16:00に、2012年第17回津山城西まるごと博物館フェアが「手仕事のまちが蘇る アート&クラフト展」と題して作州民芸館周辺で執り行われました。当日は売り切れ御免でクラフト展、模擬店広場(城西のなつかしい味が大集合)、城西お宝さがし、ミルクホール、木工教室、西小学校図画展示、作州絣の実演・体験。また、城西浪漫館ではカフエ、むかし話の部屋、西小科学教室、城西レトロ市場、ステージ広場ではちびっこ達が大活躍などなど盛り沢山のイベントでした。

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河面 苫勝霊場めぐりの信仰上原のお大師堂

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 上原の丘陵端に民家より少し離れて、新築整備されたお大師堂がある。掲げられている額に、「苫勝霊場 第十九番本尊 地蔵菩薩」とある。 
 苫勝霊場○○番とは、かつての苫田郡・勝田郡地域の八十八ヵ所めぐりの札所(観音霊場)を言うのであって、戦前の八十八ヵ所めぐりが大変盛んであった歴史を伺わせるものである。霊場めぐりは、農閑期の春先に遍路姿で杖をつきながら歩き、数十人の団体で巡回していた。数日がかりの巡回のため、時折、上原中の民家が総掛かりで遍路宿をつとめ、世話をしていたと言う老人の話である。

 そもそも、八十八ヵ所めぐりは、観音信仰に由来し、観音霊場三十三ヵ所札所めぐりの発展した、四国の八十八ヵ所(弘法大師霊場)めぐりを示すものである。八十八基の石仏などを並べてあるのは、この霊場(札所)詣での写しで、多くの場合は、石仏などの前に、そこに示した寺院の土を埋めてお砂踏みをし、参詣と同じ意味を持たせている。八十八ヵ所の札所に参ると、それぞれ米粒を供えていく「御撒米」や、5円、10円などの硬貨を1枚づつ「御賽銭」として供えていく形の信仰は今も続いている。

 歴史的には、養老2年(718年)に西国三十三観音霊場が創設されて、弘法大師(空海)のゆかりある四国八十八ヵ所霊場が、平安初期(920年頃)創設された。一般大衆が、本格的に霊場巡りをするようになったのは、明治の20年代からと言われ、四国の場合徒歩で約60日かかっていた。そのため、苫勝の事例のように、全国各地にこれに代わる数日で参拝できる巡礼コースが創設された。

 上原の19番霊場は、四国八十八ヵ所19番霊場である徳島県小松島市の立江寺の本尊=延命地蔵菩薩を勧請されている。立江寺は、聖武天皇の勅願寺で、弘法大師の刻んだ仏像があり、阿波藩主蜂須賀公により再建された古刹である。地蔵菩薩そのものは、観音の化身の姿であり、延命地蔵は、人の苦しみを救うばかりかいざという時、身代わりとなって災難から助けてくれる、霊場あらたかな地蔵尊として信仰が厚い。上原では、一時、薮の中で薄汚れていた石仏であったらしいが、今再びよみがえり、毎日のように線香や蝋燭が絶えない住民の熱心な信仰が続いている。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)2012.9.17

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明治の講組文書等を保存の下木お大師様

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 田熊分広戸川の東側山手に、下木(北)と大町(南)の集落がある。それぞれ集会所があるが、この公会堂の中に下木ではお大師様が、大町ではお大師様、お薬師様が祀られている。
 下木の場合、お大師様を祀るお籠り堂が古くなったので、昭和57年、その場所に集会の便利を考えて、集会所に建て直した。大町の場合も同様で、阿弥陀様があった場所へ公会堂を建てており、いわば仏様がもともとの本家であった。
  仏様がこうした位置にあるということは、お大師様なり阿弥陀様が、寄り合いの度に日常的に親しめ、信仰できる便利さを考えてのことであり、昔からの信仰と結び付いた村の暮らしの一端を伺わせるものである。
 とくに、下木の公会堂の中にあるお大師様には、明治期の、四国八十八カ寺納経帳(集印帳)・講連中議定書・毎月講定約書等の関連文書が保存されていて、村の暮らしを考えさせられる貴重なものなので、紹介しておきたい。(2012年9月9日取材)

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五穀寺(旧勝北町大吉)


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五穀寺(大吉) 2012.9.2
 日本原高原を見渡せる高台にある五穀寺は、山号を作本山、院号を豊饒院とする真言宗東寺派の寺院です。
本尊は阿弥陀如来。寺伝によると応永年間(1394~1428)高野山宝性院宥快上人の開基と伝えられます。本寺の住職であった大僧正岩原諦信師(1883~1965)は、高野山大学の講師をつとめたこともあり、わが国の声明(仏教音楽)の権威として知られています。国語学者の金田一春彦氏が寺を訪れ、師の教えを受けました。(神社と寺院より)
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