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取材記事内を検索ワード「塚」で検索した結果,160件の記事が見つかりました。

狐塚の話『山西の民話』

kitsune-1.jpg 古池((現・小池)の奥に「石が谷」というところがある。昔、水の便利が悪くて稲が作れず、畑にして大豆をを作っていた。毎年のこと、豆がうれるころとなると兎が出て豆を食い荒らして困っていた。ある年、持主の花戸(ハナト=家号)の六兵衛隠居が腹を立てて、兎退治を思いついた。勢子をたのんだら、早速に治郎兵衛や弟の熊や、虎やんや常やんや、雄治に治太郎など若者が集まって「やろう」「やろう」といきり立った。兎網を用意して、勢子たちは手ごろのこん棒を作った。旧の10月13日だった。畑のまわりに兎網をしかけて、兎の来るのを今か、今かと待っていた。

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虚空蔵山 求聞持の寺(東田辺)

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虚空蔵山 求聞持の寺(高野山真言宗 美作八十八ヶ所霊場 第74番)
 萬福寺に如意宝珠をお奉りする融通堂があったとのいい伝えがありました。由来は萬福寺と同じです。
 平安時代後期の経塚と如意宝珠を護持するために、實仁和尚が昭和五年融通堂を再建され、昭和五十八年四月二十一日に本四国八十八ヶ所霊場を勧請すると共に、求聞持の寺として新寺建立されました。

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芭蕉句碑(津山市日本原字日本)

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 日本原神社の前にあり、建碑は弘化2年(1845)もとは、国道53号線の南側に建てられていたが、のちに北側に移され、国道改修のため、現在のところに移転した。
 芭蕉150年忌あたる天保14年(1843)に、日本原に芭蕉句碑を建てようと志していた、俳人有元渕龍(山形)が没したので社友亀由等が、其の意志を継いで建てた碑である。
 碑面に刻まれた句は、芭蕉が那須野で詠んだものであるが、日本原野の景観が、この句意に符合するところから、選ばれたといわれている。(文:『勝北町の文化財と石造美術』より)

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民泊施設「NishiIma 25(西今25)」

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2018年6月18日に民泊施設となった「Nishima 25(西今25)」です。ここは、津山市街の西側に位置し、西今町の『片山邸』から今年3月29日にカフェ兼ギャラリーとしてオープンした素敵な古民家で6月15日からは民泊施設となりました。国指定重要文化財のある寺町にすぐ近い静かな場所にあります。運営するのは、長期海外生活で民泊を経験されていた櫻井由子さんです。(2018年6月3日・7月6日撮影)

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賀茂競馬(特別扱いの倭文庄馬)

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 倭文歴史と文化を語る会"ふるさとの歴史再発見の旅"(平成30年5月5日)日帰りで京都市上賀茂神社競馬神事と三十三間堂の旅に参加して来ました。この旅は倭文地区の歴史を子ども達に伝えたいと企画されたのだそうです。子ども達も実際に自分たちの目で競馬を見て何かを感じてくれたことでしょう。


競馬(くらべうま)
 馬は神聖な動物とされ、五穀豊穣・天下安隠を祈って、神馬(しんめ)として奉納された。上賀茂神社の競馬、下鴨神社の流鏑馬(やぶさめ)など、馬が登場する神事は多い。上賀茂神社の競馬は、1093年(寛治7)に、宮中の菖蒲の根合わせで勝った女房たちが、そのお礼に奉納したのが起りとされる。病気平癒祈願に、十列(とおつら)走馬の奉納という盛大なものもあった。(文:倭文地区歴史と文化を語る会)

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文化財めぐり(近長~杉宮周辺を歩くNo.1)

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2018年3月10日の晴れた日に、津山郷土博物館主催の第114回文化財めぐり(近長~杉宮周辺を歩く)に参加して来ました。出発は津山市野村にある成名公民館駐車場10:30出発です。今回は近長から杉宮周辺です。周辺には土浦藩の代官所跡や、多くの石造物などが残されており、歴史のある地区となっています。道のりは約7.5kmです。(2011年 川港が栄えた町楢の今
No.1は、念仏講碑・近長四ツ塚古墳群→近長代官所跡・八坂神社→八幡神社までです。続きはNo.2で

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作楽神社と境内の碑

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 作楽神社案内(明治2年11月27日創建)御祭神 後醍醐天皇・児島高徳(旧社格県社)
由緒:元弘2年(1332)北条幕府のために隠岐に流される途中の後醍醐天皇がこの地にお宿りになり、児島備後三郎高徳が桜の幹を削って「天勾践を空しうする莫れ、時に范蠡無きにしも非ず」と記して天皇をお慰めした故事により、貞享5年(1688)津山藩森家の執政長尾勝明が顕彰碑を建て、のち、松平家の家臣道家大門らの努力によって神社が鎮祭された。境内地は約1万坪、鎌倉時代の守護職の館であった。大正11年、「院庄館跡、児島高徳伝説地」として国指定の史蹟となった。社宝の太刀(銘、来国行)は、国指定の重要文化財である。境内神社:護桜神社・水神祠(平成11年11月鎮座130年記念)(文:境内案内より)(2018年4月29日撮影)

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医王山 等覚寺(大字宮尾)旧久米町

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医王山 等覚寺(大字宮尾)旧久米郡 (2014年9月17日取材)
天台宗の寺院である。作陽誌には嘉祥三(850)年の建立とあり、又、貞観二(860)年三月、天台座主慈覚大師が、清和天皇の勅命を奉じて建立したものともされている。何れにしても平安前期の開山創立ということになる。往古は十二坊もあったといわれるが保元年中(1156~1159)火災により末房悉(ことごと)く消失した。それから約六百年ばかりの間は様子がわからないが、江戸時代になって天和二(1682)年五月梁行二間、桁行二間の本堂が建てられ、それから九年の目の元禄四(1691)年三月十二日には庫裏が建築された。庫裏は敷坪十二大工、備前國奥(邑久)郡上山田村、光義次左衛門となっている。それから五十五年目の天明三(1783)年には鎮守八幡堂・門・飛境内の観音庵・大日堂が出来上がった。

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鶴山 慰霊碑(美作忠魂碑)

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美作忠魂碑
 美作五郡の各寺院が、よくまとまったのは地理的にも北条県の伝統があるが、実はすでに明治末年に協力の実績を築いていた。というのは津山町所在の仏教各宗協議所なるものが、本源寺に設けられていた。明治三十八年の十一月、ここで日露戦争の戦死者のため記念碑を建てようという相談ができた。当時苫田郡長をしていた小沢泰にこれをもちかけたところ、町長をしていた矢吹金一郎に相談してやれということになり、矢吹と仏教各宗代表が基礎案をつくった。これが鶴山公園にできた美作忠魂碑の出発であった。結局津山だけのものでなく、美作一円のものにしょうと、神職や有志に呼びかけ募金に着手したのである。費用三千円計画で募金運動をはじめたが難航したようだ。しかし努力が実り、四千三百余円を集めたものの、予定より費用も高くつくので、継続して募金をしつつ、第一回招魂祭を、四十年の四月二十一日にしている。この日が後年毎春の招魂祭の日となった。

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