鶴山 慰霊碑(美作忠魂碑)

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美作忠魂碑
 美作五郡の各寺院が、よくまとまったのは地理的にも北条県の伝統があるが、実はすでに明治末年に協力の実績を築いていた。というのは津山町所在の仏教各宗協議所なるものが、本源寺に設けられていた。明治三十八年の十一月、ここで日露戦争の戦死者のため記念碑を建てようという相談ができた。当時苫田郡長をしていた小沢泰にこれをもちかけたところ、町長をしていた矢吹金一郎に相談してやれということになり、矢吹と仏教各宗代表が基礎案をつくった。これが鶴山公園にできた美作忠魂碑の出発であった。結局津山だけのものでなく、美作一円のものにしょうと、神職や有志に呼びかけ募金に着手したのである。費用三千円計画で募金運動をはじめたが難航したようだ。しかし努力が実り、四千三百余円を集めたものの、予定より費用も高くつくので、継続して募金をしつつ、第一回招魂祭を、四十年の四月二十一日にしている。この日が後年毎春の招魂祭の日となった。

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計画通りのものに完成したのは翌年の第二回招魂祭のときであった。忠魂碑は日露役だけでなく、明治維新にさかのぼり、鞍懸、井汲というところから、明治十年の役、三十三年の役、そして三十七、八年の役の戦死者六百五十一名を合祀した。面白いのは、考え方がなかなかはっきりしていることだ。寄付金が予定額に達しなかった村については従軍者の氏名を記念碑に彫刻せず、軍人数のみ。寄付をしなかったところは、何も彫刻しなかった。これが二十七ゕ村にもなっている。

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 津山の旧藩主、松平康民が百円の寄付で筆頭、もう一人塚本芳五郎という人が百円を寄付している。一般が一円という募金目標であったから百円は大きい。塚本は西新町で嘉永三年に生まれ、岡山に出て米穀商をいとなみ成功した。男子校や女子高にも図書費など一千円あてを寄付している。大正九年に死んでいるが、岡山に岡山県招魂社を独力で建てたのも彼であった。(文:『作州から見た明治百年(上)』より)(2014年3月2日撮影)