取材記事内検索

取材記事内をタグ「庄屋」で検索した結果,6件の記事が見つかりました。

美作の大庄屋巡り「中西家」

800nakanishike1.jpg

 中西家 中西孫右衛門 東北条郡小中原村 森藩~松平藩 関宿藩
大庄屋まで
 中西氏は、戦国末期、津山市勝北町西中にあった中西城の城主であった。中西玄蕃頭は尼子氏に従っていたが、のちに矢筈城の草刈氏に従った。草刈氏と姻戚関係を持ち、重臣として活躍し、草刈重継が毛利氏に従い安芸へ退去したとき、加茂郷に帰農したという。孫右衛門が森藩により大庄屋に任命された。

美作の大庄屋巡り「中西家」の続きを読む

美作の大庄屋巡り「多胡家」

20188-13tagoke155.jpg

多胡家 多胡勘右衛門 東北条郡綾部村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 多胡氏は、尼子氏の家臣として出雲国に居住していた。尼子氏滅亡後は宇喜多氏に仕え、医王山合戦では宇喜多氏の武将として戦っている。秀吉の朝鮮出兵に参加したといい、宇喜多氏滅亡後、綾部村に帰農した。吉兵衛が森藩の大庄屋に任命され、以後大庄屋を勤めた。
大庄屋として
 大庄屋を勤めた多胡氏は、屋号を米山という。経済的に行き詰まり、安永5年(1776)大庄屋職を取り上げられ、その後再び大庄屋に任命された。栄二郎は第1次長州戦争に従軍した。(雲路日記)

美作の大庄屋巡り「多胡家」の続きを読む

美作の大庄屋巡り「福島家 福島善兵衛」

fukushimake601.jpg

福島善兵衛 大庭郡目木村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 福島氏は、もともとは鎌倉幕府のもとで、伊豆福島郷に居を構え北條高時(1303-1333)代に故えあって四国土州七條公に仕え、土州安芸郡、讃州三野郡託間塩生構城・豫洲国分寺金甲山居たと伝えられる。享徳3(1454)年長宗我部元影により落城となる。一族を連れて安芸を経由して、美作の国勝山高田城の三浦氏を頼り作州の地につき、三浦氏に仕えたことに始まる。・・・19代一信(伊織介)の時。
文亀年間(1501ー1503)高田城三浦貞連の元で、山名右近亮の守護する篠向城を陥落させ城代として入城した。以来、21代玄蕃允 一盛(-1526)、22代玄蕃允 満則(-1548)、23代玄蕃 盛親(一則)-1584)75年間 篠向城を守護した。(23代玄蕃一則を目木構の祖とする)
天正4年(1576年)毛利・宇喜多連合軍により勝山高田城主三浦が滅ぶ。福島・金田が守護していた篠向城も陥落し、城から逃れていたが、宇喜多の家臣・江原氏に仕えた。福島盛親(玄蕃一則)の子・七郎右衛門は秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従い帰国後高麗犬を米来神社に寄進した。城主江原は釜山で病没し、その後関ケ原の戦いで西軍が負け宇喜多は改易され、福島、金田も帰農した。
江戸時代に入り、森藩により、大庄屋となる。

美作の大庄屋巡り「福島家 福島善兵衛」の続きを読む

古民家・倭文の郷  黒瀬家(戸脇)

kurose1.jpg

 過去、何度かイベントがあり取材させて頂いております津山市戸脇にある古民家「倭文の郷」ですが、予てから詳しく知りたいと黒瀬家をお訪ねして来ました。。(2014年)(2018年)
 「黒瀬家の詳しいルーツは解りませんが、建築当時の黒瀬家の覚書があり、建てられたのは元治元年(1864)だとわかります。」と教えていただきました。築155年の黒瀬家は、嘗て津山藩の庄屋をしながら明治初年から養蚕を飼っていたそうです。その後、財を成して明治22年より大正9年まで清酒醸造業をしていたそうで、今でも家の中には酒蔵の名残がありました。六代目黒瀬精一正勝の時代は、この他にも津山特産雲齊織を、また、柿・漆の木、孟宗竹等を植樹し、地方果樹園の起源を作ったと記されています。(2019年9月25日撮影)

古民家・倭文の郷  黒瀬家(戸脇)の続きを読む

美作の大庄屋巡り「井上家」

inoue1.jpg

井上家 井上勘三郎 勝北郡福井村 土浦藩
 家伝によれば、源頼朝に仕えた井上十郎左衛門義吉の後裔井上蔵人正清が播磨国乃井野から移住して岩黒城を築いた。一族は後藤勝基に仕え、天正7年(1579)三星城合戦で戦死した者もいた。正清の子孫が、福井村帰農したという。延享4年(1747)、土浦藩は吉野郡、勝北郡の1万9千石余を領し、天明2年(1782)大庄屋として近長村甲田猪吉、福井村井上勘三郎を任命した。
 大庄屋としての記録はなく不明である。福井村正伝寺、八幡神社の延享元年の棟札に、庄屋井上五郎兵衛の名がある。
 福井村は、広戸川が形成した低地と、低丘陵の村である。森藩改易後、幕府領となり、延享4年(1747)常陸土浦領となった。

美作の大庄屋巡り「井上家」の続きを読む

美作の大庄屋巡り「大倉家 大倉正左衛門 浜田藩(鶴田藩)」

okura7.jpg

大倉家 大倉正左衛門 久米北条郡和田北村 浜田藩(鶴田藩) 
大庄屋まで 
 家伝によれば、遠祖は後白河法皇の近臣の一人平資行という。彼は『平家物語』に出ている鹿ヶ谷事件で美作に配流され、一族は大倉を名乗ったという。神楽尾城主大蔵甚兵衛はこの流れをくむといわれている。 弘化2年(1845)から、大倉正左衛門が南組の大庄屋を勤めた。
大庄屋として
 美作に移った浜田藩は、慶応3年鶴田藩に名を変えた。藩主をはじめ4千人ともいわれる家臣とその家族の生活を支えた領民は大きな負担を強いられた。正左衛門たちは、藩への献金や借金の交渉と返済などの処理に廃藩後まで尽力した。慶応4年、新たに編入される村を早急に決定してほしい旨を幕府に嘆願し、美作5郡の95か村が鶴田藩に編入された。大倉家には大量の文書が残されている。
所在地
 古くから垪和郷の信仰を集めた一ノ宮八幡神社がある。

美作の大庄屋巡り「大倉家 大倉正左衛門 浜田藩(鶴田藩)」の続きを読む