美作の庄屋巡り「多胡源右衛門」

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 天正7年(1579年)尼子氏が亡んで、尼子氏の旧臣であった東北條郡綾部村(津山市)多胡源三郎基辰(妻は田口氏)は、父四郎右衛門基信(いづれも多胡氏略系参照)と共に宇喜多直家に属した。
 多胡基辰は毛利氏の属城の東北條郡岩尾山城(津山市吉見、祝山、医王山ともいう、既述)を常にうかがっていた。
 毛利方の城將の塩屋佐助は父の豊後守、弟杢助と共に城を守っていたが、多胡基辰に不意を襲われ戦死、落城した。

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家の手前には大きな門があったそうです。

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所在地
 綾部村は、加茂川が北から東へ大きく迂回する右岸の段丘にあり、丘陵地に田畑が広がる。因幡往来が丘陵地を南北に通っている。背後に多胡氏の先祖が戦った医王山城など山城も多く戦国時代には戦略上の要地であった。

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屋敷地は裏の竹藪の中にある。

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多胡氏について
 多胡氏 多胡基辰が塩屋佐介を討取ったことは医王山記に詳かである。多胡氏は綾部村に土着し其後裔が現存して居る。多胡正治氏所蔵の系図を抄録すれば、
〇辰敬 号多胡左衛門尉雲州之住尼子径久家老十三人之内也径久晴久二代ニ仕ル
〇基宗 号多胡加賀守尼子晴久義久二代ニ仕ル美作国加茂郷八幡宮造立之時蒙大将之下知奉行職タリ永禄九年出雲国富田城落去以後為浪士
〇隆重 号多胡兵庫介尼子家二代ニ仕ル永禄九年富田落城以後為浪士
〇基信 号多胡四郎右ヱ門尉富田落城之後備前国住宇喜多直家秀家二代ニ仕作州苫北郡綾部村ニ住是綾部多胡氏祖也、法名法性院浄俊居士妻ハ備後国神辺城主杉原氏女法名馨香院妙寿大姉
基辰 号多胡源三郎後源右ヱ門改備前国宇喜多家ニ仕天正七年塩屋左介ヲ討捕所謂左介ハ医王山城主塩屋豊後守嫡男也母ハ杉原氏妻ハ田口光正女子孫民間ニ有
〇基貞 号多胡六兵衛備前宇喜多中納言秀家卿ニ仕文禄元年高麗陣ニ立母ハ同基辰、承応二年五月十七日卒法名穐月常覚居士妻桑原氏女寛文二年十一月廿七日卒黄冬妙祐信女
以下系図を省略する。
市郎右ヱ門の子宗ヱ門は原村に居住云々との記事がある。尚多胡基辰に就いては岩尾寺過去帳に
 安民院長熈義勇居士 元和六年二月二十日 源右ヱ門基辰
 長寿院月山妙秋大姉 慶長十一年十月十五日 源右ヱ門基辰妻
と載せてあり記して参考とする。
(文:『私説美作略史』より抜粋)

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(2020年2月1日撮影)多胡様に屋敷跡地を案内していただきました。

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屋敷跡                     塚が見えてきました。

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塚の上にあるこの塔はなんでしょうか?

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大きな木が点在している。

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屋敷跡裏に墓地がある。             当時から生えている椿でしょうか?

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多胡源右衛門の名が彫られています。(2020年2月1日撮影)