美作の大庄屋巡り「福島家 福島善兵衛」
福島善兵衛 大庭郡目木村 森藩~松平藩
大庄屋まで
福島氏は、もともとは鎌倉幕府のもとで、伊豆福島郷に居を構え北條高時(1303-1333)代に故えあって四国土州七條公に仕え、土州安芸郡、讃州三野郡託間塩生構城・豫洲国分寺金甲山居たと伝えられる。享徳3(1454)年長宗我部元影により落城となる。一族を連れて安芸を経由して、美作の国勝山高田城の三浦氏を頼り作州の地につき、三浦氏に仕えたことに始まる。・・・19代一信(伊織介)の時。
文亀年間(1501ー1503)高田城三浦貞連の元で、山名右近亮の守護する篠向城を陥落させ城代として入城した。以来、21代玄蕃允 一盛(-1526)、22代玄蕃允 満則(-1548)、23代玄蕃 盛親(一則)-1584)75年間 篠向城を守護した。(23代玄蕃一則を目木構の祖とする)
天正4年(1576年)毛利・宇喜多連合軍により勝山高田城主三浦が滅ぶ。福島・金田が守護していた篠向城も陥落し、城から逃れていたが、宇喜多の家臣・江原氏に仕えた。福島盛親(玄蕃一則)の子・七郎右衛門は秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従い帰国後高麗犬を米来神社に寄進した。城主江原は釜山で病没し、その後関ケ原の戦いで西軍が負け宇喜多は改易され、福島、金田も帰農した。
江戸時代に入り、森藩により、大庄屋となる。
福島茂作は、大庄屋の兄三郎左衛門とともに、天明7年(1787)から久世代官所で、数々の施策を生んだ代官早川八郎左衛門を支えた。寛政3年(1791)庶民教育のための典学館の設立や運営に深くかかわった。特に、播磨国龍野から教師として菊池正因を招く仲介をした。
また、福島彦介(茂作)は寛政10年、幕府領の3分の1銀納が米と銀の換算により増税になったことから減免を訴えた。美作の幕府領228か村の代表として池ケ原村岡伊八郎ら5人のうちの1人として、江戸で駕籠訴をおこなった。その成功の裏には早川八郎左衛門の力添えがあったと伝えられている。信治郎は、金屋の堰(用水路)を造り30ha余の新田を開発した事業に尽力した。
所在地
目木村は、目木川下流域右岸に条里制地割の遺構が残る低地に位置する。奈良時代の大庭郡衙(西口遺跡)が低地北にあった。
屋敷・墓地
屋敷は、目木川右岸に位置し、周囲に堀を巡らし、中世の豪族館を思わせる。江戸時代後期に建てられた母屋、回遊式庭園、土塀など大庄屋の屋敷の風貌を残している。墓地は屋敷のすぐ南にある。米来神社境内には祖霊が祀られている。
子孫
信治郎は、明治になり大庭郡長に任命され、副戸長、目木村長などを歴任した。毅は久世町長を勤めた。(文:『美作の大庄屋~故地をたずねる~』より。後日、福島・豆原両氏に家系図を基に加筆いただきました。)
長屋門
長屋門
主家
表から見た主家
主家の正面(南)
主家
目木構と主屋の間取り(小谷家当時)
敷地配置(上図)や主屋の間取り(下図)は、地元在住の小柳初枝さん作成の図をもとに、建築の専門家により小谷家当時(1908年から1951年まで居住された)の様子が初めて復元された。
屋敷図(屋敷図:目木構研究会発行のリーフレット「真庭市の文化財 目木構」より)
目木構(めきかまえ)「目木構研究会」の豆原義重様より説明をお聞きしました。
目木構は、江戸時代に目木触(ふれ)の大庄屋であった福島家の屋敷です。福島家は、初め高田城(勝山町)の三浦氏に、後に戦国大名であった宇喜多家の武将江原氏の仕えていましたが、関ケ原の戦いで宇喜多家が改易されたため、この地に帰農したといわれます。
屋敷地の周囲には濠を廻らし、あたかも中世領主の居館に類似していることから目木構と呼ばれています。建物自体は、江戸時代後期に建てられたものと思われます。 平成14年3月1日 真庭市教育委員会 (文:現地説明板より)
家人用の玄関 板戸
大黒柱 大柱
解体前の目木構
重要な客人が通される部屋(一の間、二の間、三の間)
重要な客人が通される部屋
釘隠し?飾りも豪華です。
廊下の天井
逍遙園(しょうようえん)といわれる庭園は往時のきらめきはないものの、若干の整備をして行けば見ごたえのある日本庭園となる。
蔵は一つしか残っていないが、往時の融資を想像する貴重なものである。
広大な敷地
目木構のあゆみ
目木構は、江戸時代の大庄屋福島家の屋敷跡。福島氏は戦国時代に高田城(旧勝山町)の三浦氏、その後戦国大名であった宇喜多氏の武将江原氏に仕えた。福島氏は江原氏が城主だった篠向城に居たが、文禄・慶長の役で江原氏が死去したためこの地に帰農したといわれ、福島玄藩盛親氏から36代福島正美氏までこの地に居住した。その後、明治41年12月、当主福島正美氏は大阪の小谷駒次郎氏に敷地建物を売却した。しかしながら、小谷氏は第2次大戦後の農地改革等で建物の維持ができなくなり、美和村に建物だけを売却した。村は内部を改修して昭和27年に養老院(後の真庭老人ホーム)を開設し、平成29年まで運営した。
長屋門前にある樹齢650年といわれるムクノキの大木は「目木構」と同じく真庭市の文化財として指定された古木であり、「構」を見続けてきた生き証人である。真庭市指定文化財(昭和38年指定)。目通り周囲約6m、樹高25mを測る。推定樹齢は650年(一説に300年以上)。
外観は濠、土塀、主屋の大屋根など堂々とした雄姿である。(文:目木構研究会発行のリーフレット「真庭市の文化財 目木構」より)(2019年10月14日・11月27日撮影)