美作の大庄屋巡り「中西家」

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 中西家 中西孫右衛門 東北条郡小中原村 森藩~松平藩 関宿藩
大庄屋まで
 中西氏は、戦国末期、津山市勝北町西中にあった中西城の城主であった。中西玄蕃頭は尼子氏に従っていたが、のちに矢筈城の草刈氏に従った。草刈氏と姻戚関係を持ち、重臣として活躍し、草刈重継が毛利氏に従い安芸へ退去したとき、加茂郷に帰農したという。孫右衛門が森藩により大庄屋に任命された。

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大庄屋として
 成興寺は、矢筈城内にあったが、中西氏によって現在地に移され、自ら壇信徒となって寺運の隆盛に努めた。また、享保8年(1723)、津山まで陸送していた年貢米の輸送に船を利用するため、川湊楢から塔中村までの14kmの川筋の航路開削に私財をなげうって、後世に便宜をもたらした。そのため、借材がかさみ没落を早めたという。

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所在地 
 小中原村は、倉見川の左岸にあり、小村ながら商家もある。加茂谷地域の商業の中心で、因幡往来や加茂から倉見へ続く道が通る。

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屋敷・墓地
 成興寺の東にある高い石垣を築いた広い屋敷地が屋敷跡であり、現在は新築住宅が数軒建っている。その側を倉見への古道が通る。墓地は、小中原集落西の県道75号線沿いに移転され、山際の一列が大庄屋の墓石であるという。菩提寺は曹洞宗成興寺(津山市加茂町小中原)。
子孫
 中西家は現在絶えているが、明和年間、津山二階町山手屋(牧山家)の養子に入り、中西家の過去帳などの文書は牧山家に受け継がれている。牧山氏は一般財団法人津山慈風会 津山中央病院開設者の一人でもある。

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                        墓地のすぐ側に万燈山古墳への道がある。
(文:『美作の大庄屋~故地をたずねる~』より)(2018年8月13日・2020年1月30日撮影)