臥牛亭(がぎゅうてい)高梁市指定重要文化財

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 桁行2間、梁間1間半の切妻造、桟瓦葺の平屋です。一方の妻側に半間の庇(ひさし)を設けて戸口とし、他の三方は窓を大きくとって明り障子を立てまわす開放的なつくりとなっています。
 臥牛亭は、江戸幕府14代将軍徳川家茂(いえもち)・15代将軍慶喜(よしのぶ)の2代の将軍に信頼され、2度にわたって老中を勤めた、藩主板倉勝静(かつきよ)が農民の苦労をしのぶため、御根小屋(藩庁)の一郭に農園を設け、明農圃と名付け自ら農耕をしたと言われています。さらにその一隅に小亭(12.4㎡)を建て、農耕の神々を祀り五穀の豊穣を祈りました。
 明治6年(1873)に御根小屋の全建物と共に撤去されましたが、山田方谷はこれを惜しみ、対岸の蓮華寺境内へ、その後八重籬(やえがき)神社に移築され、臥牛亭あるいは明農亭として現在に至っています。平成22年に保存修理を実施しました。
昭和33年2月24日指定 高梁市教育委員会(文:現地案内板より)

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臥牛亭を駐車場から見上げる

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臥牛亭                     境内にある臥牛亭

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神社境内にある方谷先生七絶詩

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神社境内にある方谷先生碑

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八重籬神社                   神門
 寛政5年(1793、備中松山藩主板倉勝政公の創建で、祭神は板倉氏始祖勝重公、二代重宗公を祀る板倉氏の氏神である。
 勝重公、重宗公は京都所司代二代三代を五十余年にわたり勤めた。幕末の藩主は板倉勝静公で、幕府老中であったため、鳥羽伏見の戦に敗れてのち朝敵となり、江戸、東北、北海道と藩主のみ転戦した。高梁の地にあった藩士達は、大阪城での藩主護衛隊長熊田恰一人の責として、慶応4年(1868)正月22日、自刃し兵火を免れる。明治2年、摂社として本殿右奥に祀られた。

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 また、境内北東隅には、勝静の親衛隊長を勤めた熊田恰を祀る「熊田神社」がある。恰は、鳥羽・伏見の敗戦後、藩士役150名とともに玉島まで帰省したが、新政府の命を受けた岡山藩による松山藩征討のため帰藩は許されず、藩士達の助命を嘆願し自刃した。

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境内北東隅には、勝静の親衛隊長を勤めた熊田恰を祀る「熊田神社」がある。
(文:現地案内板より)(2021年2月6日撮影)