方谷記念館(新見市大佐)
山田方谷(1805~1877)は、明治3(1870)年、長瀬(高梁市中井町)から亡き母のふるさとである小阪部(新見市大佐)へ住居を移し、小阪部塾を開きました。新しい時代の教育に情熱を捧げるとともに、祖父母の墓を守ったのです。
小阪部での暮らしは、幕末の動乱の時代とは違い、穏やかなものであったようです。その生活の中で目に映る景色や自分の気持ちを詠んでいます。明治10年6月26日、73歳を一期として、小阪部塾で家族らに見守られ静かに永眠しました。
ここ新見市大佐は、山田方谷先生終焉の地であります。(文:現地記念碑より)
2021-1-31山田方谷先生、小阪部移住・開塾150周年記念建碑(令和2年6月)※大佐神社奉納漢詩
山田方谷記念館(新見市大佐)(2019年6月16日撮影)
山田方谷記念館の書は片山虎之助氏
以下、2012年5月14日の館内の様子
正面に刻まれた隷書の題字「方谷山田先生遺蹟碑」は、明治維新期の英傑・勝海舟の書
山田ほうこく先生の遺髪・遺愛の盃と手沢の手筥
慈愛あふれる偉人山田方谷
「神童」
山田方谷は文化2年(1805)阿賀郡西方村(現高梁市中井町西方)で父五郎吉と母梶との間に生を享けた。両親は方谷へ惜しみない愛情を注ぎ、また方谷も元武家である山田家の復興を願う両親に応えるかのように、師の新見藩儒・丸川松隠をして「神童」と呼ばしめるほど幼い頃から非凡な才能を発揮した。乳飲み子の頃から筆を握っていた方谷は、書道にも卓越した才能を発揮し、四歳の頃に書いた堂々とした「つる」の板額が大佐神社に残っている。
「陽明学への傾倒」
方谷の生き方の根本ともいえる陽明学。当初は儒学・朱子学を学んでいた方谷であったが、やがてそれらに疑問を抱くようになった。京都や江戸へ遊学する中、王陽明の語録である「伝習録」を読んだ方谷は、陽明学こそ信ずべき学問であるとの答に至り、江戸の佐藤一斎塾に入門し陽明学者としての基礎を固めるに至ったのである。佐藤一斎の元で陽明学を学んだ方谷は「至誠惻怛」「致良知」「格物」、つまり「真心といたみ悲しむ心」を中心にし「致良知」「格物」の二つの柱が「至誠惻怛」を支えているという方谷の陽明学を完成させた。
「備中松山藩の立て直し」
京都や江戸への遊学を経て、備中松山藩校・有終館の学頭を任じ、その後私塾・牛麓舎を開き子弟教育に力を入れ始めた頃、後の備中松山藩主である板倉勝静と出会った。勝静にとって窮乏きわまる藩財政の立て直しと幕末の激動の混乱期に補佐役として頼った人間が方谷であった。
方谷が藩政改革に着手した当時、備中松山藩は借財の利子を払うだけでも、毎年赤字になってしまうような財政状況であった。元締役兼吟味役に就任した方谷は上下倹約、負債整理、産業振興、藩札刷新、民政刷新、軍制改革等藩政改革に取り組み、わずか8年で十万両の借財を返し、更に十万両を蓄財した。
「教育者としての方谷」
天保7年(1836)方谷32歳江戸遊学から帰国すると藩校有終館の学頭を命じられた。2年後に家塾牛麓舎を開塾した。方谷は藩政改革に取り組むまでの約13年間に三島中洲を初め数々の人材を育てた。
西方村長瀬の里に移住した方谷は明治元年に長瀬塾を開いた。明治3年(1870)10月には長瀬から小阪部に移寓し小阪部塾を開いた。
また閑谷学校再興に尽力すると同時に名付け親となった郷学(明親館・知本館・温知館等)で春秋2回講義をし、明治9年病に伏せるまで子弟の教育を行った。
(文:新見市大佐 山田方谷記念館パンフレットより)(2012年5月14日・2019年6月16日・2021年1月31日撮影)