曹洞宗 巨龍山 定光寺(高梁市)
僧都が大同2年(807)深山幽谷の地で仏典の研究に適し、医術のための薬草・薬石が近くにあるため、ここに桓武天皇からいただいた「法皇山萬年堂」を名乗り、法相宗のお寺として創建されました。翌大同3年(808)には弘法大師が僧都を訪ねてこの地を訪れています。嘉吉年間曹洞宗に改宗され現在の37世までつづいていて、平成31年(2019)の「晋山結制」の儀式の際「玄賓僧都没後1200年法要」も同時に挙行されています。
巨龍山 定光寺 参道 法界地蔵
巨龍山 定光寺 三門(総門) 本堂
僧堂 庫裏
巨龍山 定光寺 本堂
鐘楼 本堂
掌悪童子 地蔵願王大菩薩 掌善童子
正面真ん中に山田方谷先生の書がかけてあります。
永平道元禅師行状之図(双幅)
開山堂正面に安置されている祖師 三宝荒神
山田方谷先生と山田家先祖供養の位牌 千手観音
徳川家康座像 徳川家康神位
達磨大師
達磨大師きじ
祈祷殿「東照宮」
駕籠:幕末の頃、室家に天皇家から嫁入りの際使用されたもので、内側には彩色された草花が描かれています。
弁天堂
巨龍山 定光寺 玄賓僧都没後1200年法要
鐘楼 山門
山田家先代の墓地
山田家と定光寺
山田家は定光寺の檀家、文治3年(1187)平家討伐に功績があり「地頭」として初代山田重英が尾張の国からこの地に入り中津井の佐井田山に佐井田城を築くのですが、当西方の地には重英の次男重春が西方・土橋・草間の三ヶ村を治めるために分家し、定光寺奥の小見山に小見山城を築き、今の庄屋谷の土井に居を構えたのが始まりです。はたして山田家がいつごろ定光寺の檀家になったかは不明ですが、山田 準先生執筆「山田方谷全集」第一集「山田方谷先生年譜」によれば、この地に移ってから檀家になったと思われ、山田家21代重記の子重義までは、西山の墓地に葬られていましたが、寛永の頃山崩れにより没し、その後は定光寺に葬られました。その後(山田家24代以降)向山に墓地が開かれたと思われます。なぜなら22代治左衛門重昌、23代茂右衛門重太のお墓が定光寺の裏に現存するためです。
なお山田家の祖(2代山田重春?)と思われる墓が(石を三つ重ねたお墓)大西山に一対現存しますが、「山田墓」と呼ばれていて、何代目の方のお墓かは不明でしたが、現在でも田井和民さんがお祀りされているそうです。また田井さんのお家の下、現在畑になっている土地に山田家の祖の住居があったと言い伝えで聞かされているそうです。その後紆余屈折はありましたが、現在も菩提寺と檀家の関係が続いています。
定光寺の歴史
岡山県高梁市中井町西方374に在する当山の歴史は極めて古く、奈良興福寺法相宗(ほっそうしゅう)の僧玄賓僧都(げんぴんそうず)開基から1200年を越す由緒も格式もある寺院のため、近隣各地の公の歴史書にその記述を散見することができるので、その内容の一部を紹介します。(注 誤字・呉文はそのまま原文どおり記載)
高梁市史
中井町西方にある当寺は大同年間(806~810)玄賓僧都(げんぴんそうず)の草創と伝えられ、中古、当山庭前の巨松に、毎夜龍光が見られたため巨龍山定光寺と名付けたという。
中輿は気雲和尚で、応永の頃大般若経600軸を書写し、法要の什物とした。再興は元槇(げんてん)和尚で、嘉吉(かきつ)の頃西江原村永祥寺の夢庵(むあん)和尚を請じて開山の第一世とし、二代が元槇和尚(正しくは二代翰林元禎(かんりんげんてい)和尚である。したがって川面の吉祥寺と同じく、以後は曹洞宗として今日にいたっている。慶長9年10月、七世全長和尚の時代、領主から寺田15石・証文・境内除地・並びに末山12ヵ寺の除地をうけ、寛永の頃(1624~1644)には、第八世雪山和尚が若干の末山を開いて布教にあたった。本堂の再建は十二(正しくは十三)世古鑒(こきん)和尚で、明和の頃(1764~1772)十九世大蟲(だいちゅう)和尚が当時の松山城主板倉家のために祈念し、その祈願所になったという。(文:巨龍山 定光寺提供)(2021年7月21日取材)