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取材記事内をタグ「後醍醐天皇」で検索した結果,7件の記事が見つかりました。

金竜山 天福寺(天福庵)

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 後醍醐天皇が隠岐へご遷幸の時(1332)院庄の西、木の下に薬師如来が埋まっている事を告げたこの場所に寺を建て、この薬師如来像を本尊として安置し「金竜山天福寺」とした。
 ふくらしの木の根っこでご本尊が見つかった事から、ふくらしの「福」をとって「天福寺」に、寺の後ろの池に金色の大蛇が住んでいた事から、山号を「金竜山」としたのだろう。
 元は「金竜山天福寺」と称する寺院であったが、今は「天福庵」と称する小さな堂として残っている。(文:現地案内額より)(2025年9月20日・12月13日撮影)

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長内のムクノ木(美作市)

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美作市指定重要文化財(天然記念物) 長内のムクノキ
 後醍醐天皇が隠岐へ流される際、ここで食事をされ、そのとき箸を立てられたものが、根を下し、生長したとの言い伝えがある。
後醍醐天皇一行の経路が南であったとする南路説の証拠の一つとなっている。
樹齢は約700年(推定)で、目通り7.3m、樹高は15m
指定年月日 平成17年3月31日 美作市教育委員会(文:現地案内パネルより)

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神代の四季桜(真庭市)

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神代(こうじろう)の四季桜 (2025年11月15日撮影)
 後醍醐天皇の足跡の一つに、後醍醐天皇にまつわる伝説のある「神代の四季桜」があり訪ねてきました。ここは、四季桜と紅葉の名所として知られ、丁度見ごろを迎えていました。
 後醍醐天皇が隠岐に御遷幸のとき、この地でご休憩の折、馬丁の不注意で満開の桜を散らしたので
  春も咲け夏秋も咲け冬も咲け
   四季の桜と名を授けお・・
とお詠みになった。
それ以来、この桜は旧暦の四季に咲くと伝えられ、今はその何代目かの樹である。真庭市教育委員会

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つゞみち(鼓打)鼓ヶ池

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 大字宮部下にある地名で「つゞみち」というのが本来の地名であるが、これに「鼓打」と言う漢字をあてた為に「つゞみうち」となって次の伝説が発生したのかもしれない。
 後醍醐天皇が隠岐へ御遷幸の途次、ここで鼓をうたれたということである。(文:久米町史下巻 伝説より)(2025年5月17日撮影)

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後醍醐天皇が渡った「姿見橋」

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 出雲街道は、徳川時代に参勤交代の諸大名が、華々しい大名行列の絵巻物を繰り広げた道筋であり、その昔は官道と呼ばれ、都から石見・出雲地方に文化を運んで作州を東西に貫いた重要路線であった。
また、この道筋は、元弘の乱(1331年)には、後醍醐天皇が北条高時のために至上の御身を、遠流の鳳輦に委ねられ、隠岐の狐島に遷幸の砌、史蹟をとどめられた哀史の道でもある。
 元弘の乱後(1332年)、後醍醐天皇は播州今宿より杉坂峠を越えて梶並川の東岸「火の神」の渡し場に着かれた。この渡し場から川を渡り、渡里・上相を経て、岡の高塚山南麓の丘上に、間山の高福寺の寺領であった草庵を仮の行在所と定められ、仮寝の夢を結ばれたということである。
 翌朝、天皇は行在所をご進発にあたり、その南にある池畔の野橋の上に、暫くご駐輦になり、幾度かの敗戦に、おやつれになった龍顔を、池水に写された。
 この古事を伝えて、後にこの橋を「姿見橋」と名付けたとされている。
 この橋は、昭和47年の構造改善事業のために取り壊されたが、後醍醐天皇をしのび、史蹟碑が建てられ現在に至る。(木村増夫著 『勝央今昔滝川のほとり』より)
平成9年4月 岡地区史蹟保存会

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『太平記』の物語からできた作楽神社と児島高徳

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「太平記」と児島高徳  児島高徳は忍びの頭だった。
「天莫空勾践 時非無茫蠡」(天勾践を 空しゅうする莫れ 時に茫蠡 無きにしも非ず)
 児島高徳は、後醍醐天皇宿泊の院庄の館に忍び込んで、このように読む十文字の詩を桜の木をけずって書きました。
 これはその昔、中国で茫蠡と言う家来が、敵にほろぼされかけた勾践という王を大変な苦労のすえ助け、国を再興させたという物語を例にして、こういう忠義な家来もいないわけではありませんよと、天皇を励ましたものです。中国の古典に詳しかった天皇は、これを見てほほえまれたといいます。
 明治に新劇を始めた川上音二郎らによって、これが芝居として演じられて評判となり、院庄と高徳の名前は、広く全国に知られるようになりました。戦前には、高徳は楠正成と同じ忠義なさむらいとして、教科書にもとりあげられ、文部省唱歌にもなりました。
 学者のなかには、高徳は、『太平記』の作者のつくりばなしであるとか、『太平記』の作者ではないかという人もいれば、瀬戸内の海の武士団であったなどさまざまな見方や意見がありました。『太平記』に何か所も記述されている高徳は、何物であったのでしょうか。
 近年は、地域の歴史が見なおされ研究がすすんできています。関連した人物の資料やさまざまな史実から高徳は、実在の人物であったことがはっきりし、児島あたりの山伏をひきいる忍びの頭であったと、されています。

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2017年 さら山時代まつり

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 2017年11月12日津山市さら山地区一帯で「第20回 歩いてみんちゃい さら山 さら山時代祭」がありました。毎年行われる時代祭は雨で泣かされることもしばしばでしたが、何とか天気ももって午後には日差しもあり、ウォーキングするには好都合でした。カキ谷古墳~洗顔清水の約3.5kmですが、歩いているのは年配者が多かったようです。周囲の景色を愛でながらウォーキングをすると健康的かつロマンを感じまう。また、お腹いっぱいで良い事ずくめでした。さら山地区の皆様お世話になりました。
2009年2011年2012年2013年2014年2015年2016年2016年隠岐帝祭を訪問

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