嵯峨山城跡とは

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嵯峨山城跡
久米の佐良山は美作の名勝として詩歌に詠ぜられている。古今集(紀貫之・友則らにより905年に編集。最初の勅撰和歌集)に、~美作や 久米のさら山さらさらに 我名は立てし 萬代までも~の歌を載せている。この歌は清和天皇の貞観元年(860年)11月に大嘗会を行った際、美作を主基の国と定められ、主上主基殿に出御舞楽を奏せられた時、主基の国司から奉唱せしもので、作陽誌ではこの歌を「水の尾の御贄の歌なり」とし、また一説には嵯峨天皇の弘仁元年(810年)寅11月19日大嘗祭の時、主基は美作の国に定められた時、国司から奉ったとも言われている。

また後鳥羽上皇の隠岐島へ御迂行の時、~音にきく 久米のさら山さらさらに おのが名立てふるあられかな~の御製がある。また、元弘2年(1332年)後醍醐天皇西狩の途、~ききおきし 久米のさら山越えゆかん 道とはかねて 思いやはせし~の御製を残されたところであって、元弘2年3月7日京都六波羅の御仮殿を御発行、隠岐国へ御迂行あれせられ、北条高時は、千葉介貞胤、小山五郎左衛門尉秀朝、佐々木佐渡判官道誉等五百余騎でこれを警固し、途中播州加古川、作用円応寺村、美作の庄にそれぞれ御一泊。和気山の麓をへて瓜生原の内三内原より吉井川を渡り押渕、種を通御せられ佐良山にて御休息の折、前記の御詠があった。この時警固の士、小山五郎左衛門、花を一枝手折りて、六条の少将に参らせし叡覧あり、~花もなお 浮世も分ず咲けにけり 都もいまや 春になるらむ~の御製がある等史上に伝えられているところである。
 
久米の佐良山については作陽誌に
「佐良山付古城 在中島村倭歌の詠ずるところの久米の佐良山はこれなり。一名嵯峨山と名づく。或人は言う、篠山と嵯峨山とは相去ること遠からず。何れがその佐良山たるかを詳しくせず。しかも篠山は佐良山村に在り、嵯峨山は中島村在る。佐良山に在るを以って真となすべきと言う。この説は是ならず。古は中島村、古城村、暮田村、佐良村は一村なり。総べてこれを佐良村と言う。近来邑里分割し山川の隋判は其原を詳しくせず、これに疑有り。今山上を縦目するに、風景は嵯峨山を勝となす。真の名山はただこの山なるかと記されている。
 
 なお篠山をもってこれに擬し、或いは神南備山をもって佐良山に擬するなど諸説に分かれているが、この嵯峨山には文化13年(1816年)秋8月に小島広厚誌、太田貞幹書両氏により佐良山の碑が建立されている。この碑文によると、一応この山をもって佐良山としている。
 
この山はその山容の美しさを称せられたごとく、その塁跡も吉井川の清流に望み、秀景であり、また要険、その西側の麓は錦織に属し州前と言う。またこの山を州前城とも言った。
築城は、元中8年(1391年・北朝明徳2年)山名氏清・満幸等、将軍足利義満に叛し、義満は細川、畠山、赤松諸氏に命じてこれを誅す(明徳の乱)。美作国は赤松氏に与えられ、元中9年(1392年)赤松上総守義則 美作国守護職になったので、一族の赤松孫三郎教弘に嵯峨山城を築かせ城主とした。
嵯峨山は標高268.1m、比高158mで、主郭はほぼ円形で、直径が36m。6段の曲輪からなり各曲輪の周囲に土塁を備えており、南側に67m程の横堀を備えて、その両方端から下に向って堅堀を穿って横への移動を防ぎ、その外に5本の堅堀で、攻めやすい箇所を守っている。南側の尾根筋に土橋を立ち上げ、城への進入をしっかり防いでいる環郭式山城である。
しかし、考えてみると美作国を治める国主の城としては誠に小さく、長期の籠城に耐えにくい城郭ではあるまいか。
赤松教弘は赤松円心入道の曾孫で、後に治部少輔となって、播州揖東・揖西両軍を領し、同国梶山城に移り、ここで没す。  義則は、墓が誕生寺勢至堂の南にあり、正長元年(1428年)正月14日亡、行年86歳
 
その後天文年中(1532年~54年)に至り、出雲国富田城主尼子経久が美作に進出。その門属錦織右馬助利政がこの城に拠った。錦織氏在城中の事跡は錦織村興善寺の建立がある。
元禄年中(1532年~70年)毛利氏の勢力が盛んとなり、この頃錦織氏の終焉であろうか。他に資料も見当たらないし、錦織氏の末路も明らかでない。

元禄年中 備前天神山城主 浦上宗景が佐良山へ出兵した事実がある。それは、浦上宗景が牧佐介と河端与九郎にあてた感状が残っていることから証明されるが、このように浦上氏の勢力が佐良山の辺りまである。それは、毛利氏進張以前と思われ、前記のように尼子氏勢力残存中、あるいは錦織氏在城中であったであろうか。尼子氏滅亡後は、毛利氏の将肥田左馬助、高橋四郎兵衛等が佐良山城を守った。嵯峨山、篠山その何れを守ったのか、今も霧の中である。

元亀元年(1570年)宇喜多直家、その将花房助兵職秀に荒神山に築城させ、毛利氏の勢力と相対した。元亀2年(1571年)花房職秀は篠山城・嵯峨山城を急襲した。突然の事であれば、肥田・高橋両氏防戦の術もなく、城を開き、敗走す。職秀は花房次郎四郎に城を守らせ、帰城した。
この戦備前軍記等に記され知られており、篠山城の中に記しており、ここでは省略する。

天正11年(1583年)8月矢箸山の城主草苅太郎左衛門重継によって、佐良山城攻撃が行われた。この頃佐良山城は、河橋弥五郎兵衛等が守っていた。美作略史には、
「佐良山城中島村は宇喜多氏の将 河橋弥五郎兵衛等五百余人を以って守る所なり。この月十六日重継、草苅右馬允、黒岩吉弘、有元弥九郎、寺坂桃千代、中島助次郎等に命じ、之を攻めしむ。数日にして城陥る。」
さらに宝永7年(1710年)正月、当時長州毛利氏に仕えた草苅太郎左衛門就氏書上のく草苅家伝覚の位一節に、美作史略より詳しく記されている。(注)この戦の舞台は加茂町の佐良山城ではないかと思われる。
 
天正12年岩屋城で、宇喜多、毛利両軍1年近くの攻防中、前将軍義昭公の仲裁で和議成立し、毛利氏の諸城、岩屋城中村頼宗、矢筈山城草苅重継、葛下城桜井越中守、升形城福田玄蕃、高田城楢崎元兼等、それぞれ門を開き、安芸に引き上げ、美作の戦は終わり、この城も廃城となった。 

この嵯峨山城を中嶋氏が築城したという説がある。
一宮の大庄屋中嶋氏の系図によれば、藤原姓近藤武者頼資、美作に配流され、八巻山城主となり(奈義町菩提寺城)、その長子公資は中嶋城(奈義町西坪城・有元城)におり、中嶋氏を称す。以後資高、資忠、忠弘、則武を経て中嶋丹後守隆家は、高野郷地頭職となる。その長子高行は二階堂氏を称し、行光を経て、左衛門尉氏貞は元弘の乱(1331年~34年)に嵯峨山城に拠る。その子政行は備前西阿知(倉敷)の城主となり、その子近江守氏行は、中嶋氏に復す。その子義行丹後守と称し、嵯峨山の城主となり、文明16年(1484年)落城して切腹。墓は院庄村にあり、中嶋墓という。その子 加賀守輝行、高野郷に築城す。
これによると元弘年中(1331年~34年)すでに嵯峨山に築城。その子政行の時備中に移った時、元中9年赤松義則が美作の守護職となり、赤松教弘が嵯峨山に在城したもので、さらに中嶋輝行が嵯峨山に在城して、文明16年(1484年)の落城に至ったものであろう。その落城当時のことは不明であるが、落城後は前記のごとく、尼子氏の作州進行にともない、錦織氏の在城ということになる。