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田熊 文化財を誇る八幡宮【和算の算額】

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 田熊の八幡宮は、国指定の重要民俗資料として、回り舞台があり、市指定文化財として和算の算額があることで、文化財の名をなしている。
拝殿には、回り舞台についての国(文部省)による文化財指定の額とともに、算額に対する津山市の文化財指定の額が掲げられている。
 江戸時代には、関孝和等によって、日本独自の算数・数式の学問、すなわち和算が発達した。算額は、和算独特の計算法によって難解な数学的・幾何学的な問題を解明した場合、その喜びを神に感謝して、問題と解答を明記した額を作り、神社に奉納したものである。こうした献額は、江戸時代中期から明治の半ばころまで全国的に流行したようで、今も全国各地の神社に残されている。
 もっとも、岡山県下では、井原市の岸加四郎氏の「岡山県と和算」の研究によると、算額が各地に残されているとは言っても、現存は約20ほどだそうである。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)2012.1.10

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岩間山 本山寺(美咲町)法然上人ゆかりの地

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天台宗 岩間山本山寺(いわまさんほんざんじ)

 大宝元年(701)頼観上人の創建で、本尊は観世音菩薩である。当初は南方の山頂に在ったが、天永元年(1110)現在地に移り、大いに発展して百廿十坊と言われた。
古来、山岳仏教の道場として、又、庶民信仰の霊地として栄えた。長承元年(1132)稲岡ノ庄(誕生寺)の漆間時国公夫妻が参詣、祈願して生まれたのが、後の浄土宗の宗祖と仰がれる法然上人(源空)である。降って江戸時代になると、津山藩の祈願所として、尊ばれ、又、森候の時代には、美作の天台宗の触れ頭であった。山内寺院のうち、遍照院・仏性院・梅元院の三院が院内頭であったが、今では皆、合併して本坊一ヶ寺となった。現在の境内地は四千二百坪、十余棟の堂塔伽藍は、昔に変らぬ面影を伝えている。
国指定文化財、本堂(1350)、三重塔(1652)、宝筐印塔(1335)
県指定文化財、常行堂(1519)、御霊屋(1652)、仁王門(1686)、長屋(1845)、宝筐印塔(1399)、鬼面(1362)、六角型舎利塔(1344)、絹本著色両界曼荼羅図二幅(鎌倉末期)
美咲町教育委員会 (案内板より)

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美作三宮 天石門別(あめのいわとわけ)神社

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 美作三宮といわれる天石門別(あめのいわとわけ)神社は、社殿の後に滝があることから滝宮とも呼ばれています。創建は不詳ですが、社伝によると吉備津彦命が古代吉備の国平定のため西下した際、当社の祭神天手力男命(あめのたじかろうのみこと)の助けで平定できたお礼として、当地を選び、自ら祭主となって鎮斎されたと伝えられています。社地には、籠殿、拝殿、本殿が整っているうえに、古代祭祀遺跡「盤境」(いわくら)といわれる石積の塚も残っています。環境庁・岡山県(看板より)

主な祭典 10月第4日曜日 : 例大祭、4月29日 : 春祭、8月第3土曜日 : 八朔祭、美作市滝宮89(2012年11月23日取材)

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無量山 極楽寺(津山市加茂町)

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極楽寺縁起
 当寺は宇野にあって、無量山極楽寺と号し、真言宗古義派高野山理性院の末寺で、阿弥陀如来を本尊とする。開山は行基(668~749)と 伝えられる。もと字寺内にあって寺内山法幢寺と号していたが、元禄年中(1688~1703)に現在地宇野に移り新御堂山極楽寺と改め、のちさらに無量山 と山号を改めた。
 本尊阿弥陀如来像は、文政十二年(1829)に平城京真浄和上を開眼導師とし、妙法院(京都、三千院ー筆者)宮御内花房兵衛を 供養壇主として再興奉献されたもので、木造仏であり、三十三年毎開扉の秘仏である。また、三尊阿陀画幅は、古絹に三尊来迎図を描いたもので、京都、三千院 来迎仏にそっくりの名作である。また境内には直径4.6メートル、樹齢300年のカヤの木がある。(加茂町史 より)

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大町の集会場の中には、お大師様、お薬師様が祀られています。

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 田熊分広戸川の東側山手に、下木(北)と大町(南)の集落がある。それぞれ集会所があるが、この中に下木ではお大師様が、大町ではお大師様、お薬師様が祀られている。大町の場合、阿弥陀様があった場所へ集会所を建てており、いわば仏様がもともとの本家であった。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)
2012年9月9日(日)取材

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若宮神社(美作河井駅側にある)

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天正の頃(1580年代)のことである。矢筈城主達が退城したとき、その若君が、この地で非業な死を遂げて成仏せず、村人が附近を通ると、哀れな幼児の泣き声が聞こえていたので、祠を建て、その霊を慰めた。
何時の頃からか、幼児の夜泣きを治めるのに、霊験顕たかと言われ、若宮様として、今も信仰されている。平成9年1月之再建 加茂町観光協会 矢筈城址保存会(案内板より)

若宮神社は第二代景継の若君を祀っています。若君が城を落ちる際の伝説と共に伝えられ、幼児の夜泣きをしずめる神として知られています。
(案内板より)2012年9月20日取材

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2012年12月7日のイナバ化粧品店内

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年の瀬を迎え何かと気忙しい季節になりましたね、さてさて一ヶ月飛んでしまったお便りの取材に行きましたところ、ファンの皆様が心配されてお電話くださったそうです。2012年12月7日のイナバ化粧品店内でママのお友達とスタッフの皆さんです。

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河井神社(津山市加茂町)

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河井神社(旧村社 苫田郡加茂町大字河井653)

河井神社は、大字河井の人王山にあり、河井・山下の氏神であった。祭神は「上加茂村誌」によると、息長帯比売命、誉田別命、玉依姫命、高龗命であり、十月十五日に祭りをしていた。かつては『作陽誌』に明らかなごとく、八幡宮であったが、その後河井神社と改称し、村社に列せられ、明治四十二年河井内の荒神社(二社)、山神社(二社)、月星神社、塞神の都合六社を合祀した後、大正二年に上加茂神社に合祀された。しかし、昭和二十四年、河井に再び遷座、奉斎され、河井・山下の氏神として今日に至っている。2012.9.20取材(文:加茂町史より)

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矢筈神社(津山市加茂町)

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千磐神社(往時権元と称し矢筈城主の信仰、最も厚かりし神社である)の末社 矢筈城主(高山城主)草刈氏の守護神として城内に奉祀された神社であり、その後現在地に移されたものである。相殿には、矢筈城に関係した武将の霊が祀ってあります。昭和58年11月 矢筈城址保存会(2012年9月20日取材)

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竹本山 医王寺(津山市加茂町青柳)

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 当社は青柳にあって、竹本山 医王寺と号し醍醐派真言宗に属する当山派山伏寺である。本尊は大日如来である。

 開山は不明である。もと字寺山にあったが、文永二十一年(1274)に僧聖覚房が中腹に移建し、さらに天文二十一年(1552)に矢筈城主草苅衡継が現在地に移したと伝えられる(『苫田郡誌』)。本尊大日如来は、像長一尺の一本造りである。寺の行事は、正月二十八日には、部落ひとびとが本堂で大師講を行っている。2012.9.20取材(文:加茂町史より)

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