槁池山 阿協立江寺(加茂郷88ヶ所霊場第36番札所)
津山市加茂町桑原にあり、井上保氏宅の裏150m上です。本尊は地蔵菩薩だそうです。ここは稲荷山のふもとになるそうですが、詳しい由緒は解りません。加茂にお住いの木元林造さんに案内して頂きました。(2022年10月20日取材)
津山市加茂町桑原にあり、井上保氏宅の裏150m上です。本尊は地蔵菩薩だそうです。ここは稲荷山のふもとになるそうですが、詳しい由緒は解りません。加茂にお住いの木元林造さんに案内して頂きました。(2022年10月20日取材)
佐用町指定文化財 杉坂峠関所跡、種別:史跡、指定年月日:昭和58年5月20日、所有者:佐用町
大宝令によって整備された美作道は、山陽道の太市から美作国府に向かって西北に伸び、杉坂峠を越えて美作に入った。
播備作の広大な地域を制した赤松一統の中で、赤松則村が元弘3年(1333)に関を設けたところである。
慶長年間に万能峠が開通したので、杉坂峠の通行人は少なくなったが、判明している郡内唯一の関所跡である。(文:現地看板より)(2022年1月12日撮影)
(つながる「出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会 万能乢コース)
当山は、天平勝宝6年(754)に創建されたお寺で、鑑真和上の開基です。かつての本尊は行基菩薩作の正観世音菩薩と伝えられております。現在地には昭和33年に移って参りましたが、元は久米南町泰山寺というところに伽藍が配備されていました。
現在、新旧のご本尊を初め、仁王像などの仏像修復が進んでおります。(平成27年完成予定)。かつてのご本尊様からは、創建当時の温もりが、また現在のご本尊様不空羂索観世音菩薩からは、まるで息づいているかのようなお姿が感じられます。
密教寺院でありながら、地獄の王たちとして知られる、十王様のお姿がお祀りされています。例えば閻魔大王や脱衣婆など、「あの世」のイメージとしてよく知られた尊像が、完全な形で拝めます。
また、本堂向かって右側には、位牌堂を兼ねた大師堂があります。
六地蔵は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の衆生を済度するという思想から、六尊の立像を半肉彫したもので六体それぞれ異なる特物印想をあらわしており、平安時代から六地蔵信仰も始まったといわれている。因みに仏像図絵による六地蔵は次のとおりである。(『日本石仏辞典』による)
地持地蔵(護讃地蔵)両手で念珠を持つ
陀羅尼地蔵(弁尼地蔵)右手施無畏印・左手引摂印
宝性地蔵(破勝地蔵)合掌
鶏亀地蔵(延命地蔵)右手錫杖・左手如意珠
法性地蔵(木休息地蔵)両手で柄香炉を持つ
法印地蔵(讃竜地蔵)両手で幢幡を持つ
大高下ふるさと村は、今も茅葺きの民家の多い農村であるが、豪雨が続くと阿波川が氾濫し、水害を被ることしばしばであった。改修した川土手の内側に並ぶ地蔵尊の列は、出水に洗われて乱れた共同墓地などから集めてきたもので、水の平和を見守る地蔵菩薩のお姿です。
このほか、阿波村は高福寺前の首無し六地蔵、尾所の六地蔵旧道に残る道しるべ兼用の地蔵など、村の民族史にかかわる石仏が多い。阿波村(文:立札より)
○概要
物見北土居に大師堂があり、そのそばの山沿いに高さ30センチメートルぐらいの六体地蔵がある。
このお地蔵様は、疣を落としてくださるお地蔵様で、疣が出て困っている者がお参りをして、お地蔵様を六体とも転がして、「疣が出て困っている者がおりますから、疣を落としてつかあさい。落としてつかあさったら、元のように、お起こしして進ぜます。」とお願をかけ、ご利益を受けてお礼参りのとき、お地蔵様を元のとおりに起こしてあげる。疣落としに霊験のあるお地蔵様である。
時々、お地蔵様を無雑作に転がしてあることがある。 (加茂町史より)
2020年9月27日「出雲街道を歩こう会」に参加してきました。
出雲街道とは、播磨の国 姫路を発し、出雲の国 松江に至る約215kmの古道を言う。また、終点は松江を過ぎ、出雲大社とも言われている。
大和朝廷が、武力で全国平定をしたのに対し、出雲は神話に登場するが如く、平和狸に国譲りが行われ、朝廷より優遇されて、鉄の産出も始まり、街道は繁栄してきました。街道は人、物、文化を運ぶ役を果たし、その重要性は五街道(東海、中仙、甲州、日光、奥州)に匹敵し、同等の街道として発展しました。その後の街道も時代と共に、道筋は変遷、消失を繰り返していますが、現存し得いる道で合理性が高く、最も古い道を採用しています。今回は「出雲街道(東部Ⅱ)」よりの特別企画第一弾として、勝間田宿の会の主催で、3区を歩こう会を開催いたします。(文:案内資料より)
吉井川に沿って安岡町から南新座までの静かなところをお散歩すると、途中、石灯籠のところで河川敷に降りる階段があるので降りてみると、石垣に沿うようにお地蔵さまが祀られています。
「このお地蔵様は、この辺で溺れて亡くなった子供達の為に建てたって聞いてますよ。筋違橋のもう少し上手のお花淵から水練場にかけては、かなり水量も多くて、流れもキツかったんですよね。それで何人かは亡くなった方がいたんです。ウチの母親もたまにお詣りに行ってます。^_^
元々は対岸の津山口あたりにあったものが、あの場所に氾濫の後流れ着いたらしいですよ。」と安岡町在住の廣本 慎太郎さんより情報提供をいただきました。
第三十三番 大寺山 勇山寺(いざやまじ)
当山は、神亀三年(726)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が六尺五寸の薬師如来を彫刻し、七堂伽藍を創建して国府大寺と号しました。実に1200有余年前にして、当国唯一の古刹でした。
その後弘仁六年(815)十一月、弘法大師が来錫し、厄難除けのため、不動明王・矜伽藍童子・制多伽童子の三尊を一木より彫刻し安置されました。彼の成田山の姉妹作として、日本三体の一つです。
不動尊は内に応病与薬の徳を秘し、外に悪魔降伏の相を現わし、現当二世に社会浄化の利益を施します。その彫刻は大師の御手よりなされたので、本尊の誓願深く籠らせました。故に、古今の名将や遠近の士女等、之を仰信して加護をうけられた人たちが多くいました。
彼の征夷大将軍は・源頼朝は文治五年(1189)に寺領百石を寄付し、山名忠政は赤松討伐のとき戦勝を祈り、また、天正十年(1582)領主牧家信は二十石を寄付して、堂宇維持のために充てられてました。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)
六体並んだ地蔵が墓地や寺の入り口に見かけられることもある。六地蔵の形式は疫病除けと塞の神信仰の結びつきという説もあるが、その後六道輪廻の信仰の主尊となったといわれる。六体の像の名称や持物・印相・六道への配置は、出典によって諸説があり一定していない。
石造六地蔵は鎌倉時代の末期頃から造られているようだが、寺や墓地に造立されるようになったのは室町時代からとも言われている。
像容は丸彫り像や舟形光背の浮彫り像を六体並べたもの、一石に六体彫ったもの三体ずつ二石に彫ったもの、また一石一地蔵を彫り六体を並べたものなどが見受けられる。
地蔵菩薩と呼ぶより「お地蔵さん」と言って親しまれている。地蔵が六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を巡って衆生を救うという信仰に基づくもので、石の地蔵さんを全国各地で見かける事ができるのは、庶民の広い信仰を物語っている。
像容は比丘形といって剃髪頭で、如来と同様に衲衣(ころも)をまとい、右手に錫杖・左手に宝珠の姿が一般的であるが合掌像もある。
彫り方は丸彫り・浮彫り・線彫りがあり像容には立像・坐像がある。鎌倉時代になってから各地で造られるようになり、江戸時代になると現世利益を念願とする民間信仰と合流し、現在に見られるような多様な地蔵が各地で信仰されるようになった。
俗称で呼ばれている地蔵は多種であり願望が延命・治病・息災・安産・育児・豊作と多岐にわたり、また地蔵と子供のつながりは古くから子供守護としての結びつきも深くある。