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取材記事内を検索ワード「津山洋学資料館友の会」で検索した結果,9件の記事が見つかりました。

山陰の小京都 ー 石州 津和野を訪ねて

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 2025年6月1日「第42回 津山洋学資料館友の会研修旅行」に参加させていただき、三津同盟ゆかりの地 石州津和野を訪ねてきました。津山市からは片道約4時間の旅でした。
 山陰の小京都と言われる津和野と言えば、まず思い出される景色は、古い屋敷の並ぶ街並みと、水路を泳ぐ鯉でしたが、今回実際歩いてみると、鯉が泳ぐ「殿町通り」、商家や酒蔵などが立ち並ぶ「本町通り」等など現代に続く歴史や文化を知ることができたことです。古い街並みを残し育てあげた津和野の人々の思いを感じながらいい町だなぁ~と。また、国際アンデルセン賞を受賞した安野光雅さんの絵本や風景画が大好きで「安野光雅美術館」は是非とも行きたかった所の一つだったので私にとって嬉しい研修でした。

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牧野博士のふるさと土佐を訪ねて

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 2023年5月27日「第40回 津山洋学資料館友の会研修バス旅行 牧野博士のふるさと土佐を訪ねて」の研修旅行に参加してまいりました。朝ドラ『らんまん』で毎日拝見していますが、牧野博士の愛した植物や実像に触れてみたいと参加したのですが、バスの中で津山洋学資料館児島館長の予習があり、牧野博士と津山の宇田川家、箕作家とのつながりや、なんと博士には13人(6人早世)の子どもがいた等が知れたり、大変興味深いお話でした。また、牧野博士は94歳と長寿だったのですが、すき焼き、トマト、コーヒー(珈琲)がお好きだったらしい。


☆牧野富太郎が逝去した翌年の昭和33年(1958)に開園、平成11年(1999)に園地を拡張、記念館を新設しリニューアル。彼を育んだ高知県の植物を中心に、ゆかりの植物など3,000種が四季を彩り、年間を通じて多彩なイベントを開催しています。
☆彼が収集した蔵書や植物画、遺品などは、没後に牧野家から譲られ、牧野文庫として記念館の展示のみならず植物學の調査研究に活用されています、中には、宇田川榕菴「植学啓原」を16歳の時に自ら写したものもあり、注目すべき資料です。(文:津山洋学資料館友の会研修バス旅行案内より)
 

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仁木永祐先生顕彰碑と郷校籾山黌跡

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 幕末~明治時代の医師・教育者・地方政治家として知られる仁木永祐は、東北条郡下津川村(今の津山市加茂町下津川)の庄屋豊田伊兵衛の四男として一八三〇年(文政十三)二月八日に生まれた。
 一八四三年(天保十四)、津山藩儒稲垣雪洞に入門、のち永田半眉にも師事。一八四六年(弘化三)、津山藩医村山春庵に入門し漢方と外科を修める。一八四八年(嘉永元)、東南条郡籾山村(今の津山市籾保)の医師仁木隆助の長女「たけ」と結婚、同年江戸に遊学し昌谷精渓に漢学を、また津山藩医(江戸詰)箕作阮甫や宇田川興斎に蘭学を学んだ。
 一八五〇年(嘉永三)、妻「たけ」が男子出生後母子共に没したため、翌年、分家仁木梅太郎の二女「佳津」を娶り、隆助の養子となり家業を継ぐ。医業を助けるかたわら、津山藩儒大村桐陽(斐夫)に入門、またペリーが浦賀に来航した一八五三年(嘉永六)には上坂して、後藤松陰のもとで漢学を修めた。

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大岡家屋敷跡・墓所(池ヶ原)

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大岡熊次郎  1842年5月20日~1920年6月1日(天保13年~大正9年)
 地方政治家、篤農家、郷土史家、勝南郡(現津山市)池ケ原村に生まれる。
 寛政の駕籠訴訟を行った岡伊八郎の孫。明治元年(1968年)徳川親藩のため窮地にたたされた津山藩は、津山城包囲軍の交渉に、岡熊次郎を外事部の肩書で派遣して、津山城は無事開城することになりました。明治21年(1888年)大岡と改姓。
 明治6年(1874年)血税一揆による犯罪者の発生防ぐ。明治7年 北条県会議員。
 明治9年 第八番会議所戸長。明治11年~12年 勝南郡書記として、窮民救済に尽力。
 明治15年 自由民権運動に参加。明治13年~25年連続3期、勝南郡選出の県会議員を務めた。また、養蚕事業や畜産事業や高取小学校や勝間田農林高校(現・勝間田高校)のも貢献。享年79才:大正9年(1920年)6月高取村村葬。(文:『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)

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宇田川興斎旧宅跡(北町) 

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宇田川興斎旧宅跡 未指定(史跡) 北町8番地の7 
 津山市北町の城北橋の西詰の一角に津山市教育委員会が建てた解説板がある。ここが箕作家と並ぶ津山洋学のもうひとつの柱、洋学者宇田川家の四代目宇田川興斎の屋敷であったところである。この場所は、土地所有者本島大道より津山市が寄贈を受け、平成9年10月に整備された。興斎は文久3年(1863)から明治5年(1872)までのあしかけ11年間津山に住んでいた。この北町の屋敷の後、林田町に家を借りて住んでいるが、その場所は不明である。当時は明治維新前後の激動の時代であり、津山にいる間、興斎は東奔西走し、公私ともに多忙な日々を過ごした。

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近長代官屋敷跡(近長)

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近長代官屋敷跡(近長)
 堀坂村や田熊村を含む吉野・勝北2郡のうちの1万9千石は、1747(延享4)年から常陸国土浦藩(現在の茨城県土浦市)の藩主・土屋家の領地となりました。
最初は吉野郡下町村(現在の美作市大原町)に役所が置かれましたが、1790(寛政2)年、吉野郡1万石が没収され、近長へ陣屋を移しました。
その後、廃藩置県が行われるまで、120年以上にわたって土屋氏によって治められており、村民との関わりも、他の飛び地と比べて深かったとされています。(文:津山洋学資料館友の会 第26回史跡見学会津山に残る和算家の足跡を訪ねてより)2014年10月8日取材

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津山洋学資料館シンポジウム「箕作家の人と音楽」

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2014年5月21日(水)15:00~津山洋学資料館ゲンポホール

 今秋、3年ぶりに津山国際総合音楽祭が開かれます。1987年に第1回を開催して以来、一貫してテーマ作曲家にグスタフ・マーラーを取り上げ、続けてまいりました。今年、第9回を迎えますが、今回は関西フィルハーモニー管弦楽団を招聘し、マーラー交響曲第6番を演奏していただきます。そして、その指揮をするのは、同楽団首席指揮者の藤岡幸夫さんです。

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箕作家の墓所

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箕作家の墓所

 箕作家の墓は、もと市内上之町の浄円寺内にあったが、阮甫が江戸に定住したあとここに移された。阮甫以降の省吾、麟祥など幕臣箕作家の墓所は、初め東京小石川の白山浄土寺にあったが、今は多磨霊園に移されている。秋坪・佳吉など津山箕作家の墓所や、奎吾・元八ら江戸箕作家の墓所ならびに大麓以降の菊池家の墓所は、ともに東京谷中墓地にある。

 箕作家旧宅が国の史跡に指定された昭和50年、宇田川・箕作顕彰会と津山市教育委員会により、解説板と標柱が設置された。しかし、歳月を経てそれらの傷みが激しいため、箕作阮甫の生誕二百周年にあたり、津山洋学資料館友の会が、広く市民の協力をえて整備したものである。(案内板より)
平成11年11月7日

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