取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「清瀧寺」で検索した結果,27件の記事が見つかりました。

津山市立広野小学校 創立150周年記念式典

2024-11-3hironokabuki3.jpg

 2024年11月9日(土)広野小学校で、「広野小学校創立150周年記念式典」と「学びフェスティバル」が行われました。(上記写真はご父兄から提供いただきました。)
 1874年、清瀧寺の明知小学校から始まった広野小学校は、2024年で150周年を迎え、11月9日の式典には来賓や地域の方や保護者の方が集い、午前8時45分から創立150周年記念式典、引き続き10時からは児童たちの学びフェスティバルがありました。(式典の様子は、津山市立広野小学校 学校日記をご覧ください。)

津山市立広野小学校 創立150周年記念式典の続きを読む

「真言宗立教開宗1200年慶讃記念法会」に東寺参拝

higashi_monganji210.jpg

 津山市河面にある「墨池山 清瀧寺」の本山である東寺で、100年に一度の真言宗立教開宗1200年の慶讃大法会が(2023年10月8日~14日)あり、10月8日に檀家の皆さんと参拝してきました。初めて参加する大法会は、厳かであり、華やかでもありました。この法要で清瀧寺の滋澤弘典住職が、開白(かいびゃく)の座で誦経導師(じゅきょうどうし)という大役を務められました。し~んと静まり返った金堂の境内に弘典住職の良く通る声が響き渡っていました。
 また、住職の次女さんが、昨年、東寺伝法学院で僧侶となるべく、一年間の修行をされたと聞きました。そして、同期に修行された尼僧さんが、東寺諸堂の案内役を担当してくださいました。尼僧さんの案内で親しみが増しました。
 娘さんは、「お父さんに尊敬の念が増し、高齢者にも若い人にも子ども達にもいろいろな人に寄り添えるお坊さんになりたい。」とのことでした。僧侶としての活躍を期待しています。

「真言宗立教開宗1200年慶讃記念法会」に東寺参拝の続きを読む

精霊馬と精霊牛

1syoroma.JPG

精霊馬(しょうりょううま)と精霊牛(しょうりょううし)
 最近あまり見ませんが、お盆に御先祖様の送迎のための乗り物とされるキュウリで作った馬と、ナスで作った牛のことです。地方により様々ですが、一般的な呼称がこのように云われております。

 作り方は写真のようにキュウリとナスに割り箸を挿して、馬と牛に見立てると云う簡単なものですが、馬の尻尾としてトウモロコシの髭のような部分を使用することもあるようです。ナスのヘタは取らず、そのままで牛の顔を表すようです。また、真っ直ぐな物より少し曲がった物の方が、それらしく見え、ナスはどっしりしたものを使うと、より牛らしさがでるようです。しかし、定義はないので作られるならいろいろな独自のものが出来てもよいのでは?と個人的には思います。

精霊馬と精霊牛の続きを読む

高貴山 奥之院 宗傳寺(美咲町)

soudenji88.jpg

第十五番 高貴山奥之院 宗傳寺
 宗傳寺は開創盛時、七間四面の本堂をはじめ七堂伽藍が整い、支院は七十二を数えた作州の名刹であります。弘仁六年(815)弘法大師御年四十二才の行脚の折、美作和気郷に仏法弘通の霊地があるのを見定められ、国家鎮護の祈願所として一宇を建立、行基菩薩の御作開眼仏なる六観世音像の安置された霊験あらたかなる聖地であります。
 当山鎮守「高龍権現」は弘法大師入唐の時、育王山清瀧寺鎮守高龍権現に誓願、帰朝の後当山に勧請されたものと作陽誌にあります。元弘二年(1332)後醍醐天皇隠岐にご遷幸の途次、当山にお立ち寄りになられたと伝えられており、南麓には「古御帝」の遺跡があります。
 文安元年(1444)尼子の兵火に罹り堂塔悉く焼失し、唯塔頭「自性院」(現華蔵寺)のみ南麓に下りて草庵を結び、難を免れた聖観世音菩薩を本尊とし、「高貴山華蔵寺」と号して法灯連綿と継承しております。

高貴山 奥之院 宗傳寺(美咲町)の続きを読む

逧田の合祀されているお大師堂(福井)

yakushi-t6.jpg

 福井の片山・桑田集落の南には、広戸川が流れ、木造手すりの草町橋がかかっている。この草町橋を渡って、小峪に抜ける山道にさしかかった丘の上に、お大師堂が祀られている。
 ここら辺りは、逧田と言う地名であり、このお大師堂には、「勝南霊場第拾九番御本尊 薬師如来」の表札がある。一般に、お大師堂と言って、本尊に薬師様を祀っている事例が多い。正しく言うと、これは薬師堂である。お薬師様、すなわち薬師如来は、東方浄瑠璃世界に住んでいて、現世利益をはかる医薬に権威を持った仏様である。昔はとくに医療治療がままならなかった農民にとって、病気平癒・無病息災を願う気持ちは切実なものがあり、薬師如来にすがる信仰は、強いものがあった。
 この逧田のお大師堂の創建は不明だが、お大師信仰・八十八か寺巡りが盛んであった戦前の、昭和12年(1937年)に改築されている。だれがどのような協力のもとに建てたか、後年よくわかるように、金銭や人歩・資材の寄付録が、内部の壁に掲げてある。「薬師堂改築寄付録」(金銭寄付)では56名、「薬師堂改築寄付録 人歩及び材料」では、54名の住民の名前が記されており、小字部落の片山・桑田・小峪(以上、有為組)と岡・東岡・横尾(以上 三結団)が共同しての出資や奉仕により、再建したものである。また、昭和30年に屋根の葺き替えをしているが、この時も63名の住民の名が記されて、住民みんなこぞっての協力によるものであることがわかる。

逧田の合祀されているお大師堂(福井)の続きを読む

合祀されている大日如来とお薬師様(福井)

fukui-daishi6.jpg

 福井の小字本平集落の西側は、丘陵性の山地であり、それぞれの谷筋に山道がついている。集落北端の山麓山道を少し上がると、谷筋に南面して仏様を祀っている比較的新しいお堂(逗子)がある。標札に「勝南霊場第弐拾弐番 御本尊薬師如来」とはっきり書かれている。また、内部の板には、「金剛三昧院第七五番 札所」とある。
 これが、本平の住民がお参りしえいるいわゆる「おやくしさん」である。さらに、祭壇を見ると、光背をもった小さな薬師様の像と共に、高さ1m近い梵字の刻まれた石碑が並んで祀られている。
 石碑の正面は、珍しく全て梵字で書かれており、この石碑は、本格的な信仰対象の石仏様であることが分かる。
 側面に「延享元甲子天十月二八日」と刻まれている。延享元年は1744年であり、徳川吉宗の政治が行われていた江戸時代半ばのかなり古いものである。清瀧寺さんの解読で判明したとのことであるが、梵字の石仏は、「大日如来」の仏様であり、河面の旧真加部街道筋の大日如来とは類型を異にしている。

合祀されている大日如来とお薬師様(福井)の続きを読む

美作の大庄屋巡り「井上家」

inoue1.jpg

井上家 井上勘三郎 勝北郡福井村 土浦藩
 家伝によれば、源頼朝に仕えた井上十郎左衛門義吉の後裔井上蔵人正清が播磨国乃井野から移住して岩黒城を築いた。一族は後藤勝基に仕え、天正7年(1579)三星城合戦で戦死した者もいた。正清の子孫が、福井村帰農したという。延享4年(1747)、土浦藩は吉野郡、勝北郡の1万9千石余を領し、天明2年(1782)大庄屋として近長村甲田猪吉、福井村井上勘三郎を任命した。
 大庄屋としての記録はなく不明である。福井村正伝寺、八幡神社の延享元年の棟札に、庄屋井上五郎兵衛の名がある。
 福井村は、広戸川が形成した低地と、低丘陵の村である。森藩改易後、幕府領となり、延享4年(1747)常陸土浦領となった。

美作の大庄屋巡り「井上家」の続きを読む

お霊供膳・供具団子について

hasu.jpg

お霊供膳(おりょうぐぜん)の供え方について
 これはあくまで清瀧寺の流儀ですので、他の地方、宗旨では違う方法かもしれません。それぞれの習慣に従ってお供えされるとよいでしょう。
 法事、お盆などの行事の際にお供えする、お霊供膳について、その一例をご紹介させていただきます。どうぞ参考にしてください。
「お霊供膳」とは、先祖の精霊(しょうりょう)にお供えする膳のことで、年忌法事、お盆、お彼岸、または祥月命日にお供えします。
 お霊供膳は、それぞれのご家庭に代々伝わっている献立、また地域、地方の習慣など大切に守り伝えねばならないこともあろうと思います。この一例をご参考にしていただき、平素からの仏壇の荘厳、また法事の祭壇の荘厳に、より一層の真心をこめて努めていただければ、何よりの先祖に対する報恩行になることと思います。

お霊供膳・供具団子についての続きを読む

墨池山 清瀧寺の藤の花

seiryuji8.jpg

 2019年4月28日平成が終わろうとしている時に津山市内を友人とドライブしてきました。毎年清瀧寺で行われる仏壇のお焚き上げに今年はお願いする予定にしていると言う友人の話から清瀧寺さんに立寄らせて頂きました。この季節、清瀧寺は毎年綺麗に咲く白い藤棚があります。今年は少し花の長さが短めでしたがとても綺麗でした。清瀧寺は弘仁十二年(821年)人皇五十二代嵯峨天皇の勅旨により弘法大師が開基されたものと伝えられています。

墨池山 清瀧寺の藤の花の続きを読む

清瀧寺のツバキ(河面)

seiryu4.jpg

2019年3月16日に清瀧寺のツバキが可憐に咲いているので、撮らせていただきました。
 東寺真言宗 清瀧寺は弘仁十二年(821年)人皇五十二代嵯峨天皇の勅旨により弘法大師が開基されたものと伝えられています。

現建物は寛文九年(1669年)時の城主森忠政侯の寄進により再建。本尊は二十七面千手千眼観世音菩薩。作者は行基菩薩と伝えられ、脇仏の持国、増長の二天は弘法大師の寄作。

清瀧寺のツバキ(河面)の続きを読む