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江見 正 大正・昭和写真展 & 江見正暢 ステンドグラス展

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 2025年10月6日城西浪漫館2階会場で開催されている「江見 正 大正・昭和写真展 & 江見正暢 ステンドグラス展~記憶よりもずっと近かった~」(主催:城西まちづくり協議会主催)へ出かけてきました。
 写真は、江見写真館三代目・江見 正さん(1890~1976)が撮影した大正末期から昭和初期の津山の街並みや暮らしを撮影したもので、子どもの頃よく遊んでいたわらぐろ等が移った田んぼの写真を見つけ、当時に思いをはせながら懐かしく拝見しました。また、江見正暢 ステンドグラス展では、飾られた部屋がパット明るくなるステンドグラスのランプが並んでいて、華やかで「わぁ~綺麗!」と思わず叫んでいました。 隣の部屋では、昭和の津徳守神社の津山祭りの9.5ミリ映像が上映されていました。

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風神社(奈義町)

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風神社 (祭神 :龍田神社・・・天御柱命・国御柱命)
    (祭神 :八坂神社・・・素盞鳴尊)
由緒:横仙地方(奈義町・勝北町)は、昔から広戸風(台風時期)と呼ばれる局地的強風が、 毎年のように吹き荒れる。これを鎮めるため、この地に奈良県生駒郡の龍田大社(風の宮)及び、京都市東山の祇園神社から御分霊を勧請した。 神社創建の時期は定かでないが 19世紀の初め頃か、と思われる。
横仙一帯の敬者らにより、龍田様または祇園様とも呼ばれているが 1952年 [風神社] という名称で神社本庁に提出された。
1997年国道53号の道路拡張に伴い、全社地が買取され、その南50 メートルの現在地に、同年7月28日 神社の新築移転が完成した。(文:現地案内板より転記)(2025年7月13日撮影)

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瀧尾山 西方寺(加茂郷88ヶ所霊場第54番札所)

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 瀧尾山 西方寺(加茂郷88ヶ所霊場第54番札所)は、津山市堀坂地内にあり、堀坂神社の南100m位の所にある天台宗総本山比叡山延暦寺の末寺です。本尊は不動明王です。本堂は木造茅葺(トタン被せ)一部瓦。(2011年7月10日撮影)

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木谷山 神宮寺(加茂郷88ヶ所霊場第53番札所)

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 木谷山神宮寺(加茂郷88ヶ所霊場第53番札所)は、津山市堀坂地内にあり、堀坂神社の参道の左下約10mの谷にある。木造茅葺(トタン被せ)一部瓦葺、漆喰壁、外壁にこて絵あり。本尊は十一面観音です。(2011年7月17日撮影)

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史跡「後醍醐天皇の休石」(新見市)

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 2025年5月18日「出雲街道を歩こう会」に参加したついでに、鳥取と岡山の県境・明智峠を越えて新見市花見山にある史跡「後醍醐天皇の休石」に立ち寄りました。現地は、岡山より鳥取西部へと戻る途上、県境に近い新見市千屋の国道180号沿いに看板がみえます。
 伯耆に向かう途中の当地で大きな石を見つけ休まれ、遠くの明地峠(明智峠とも。岡山県新見市と鳥取県日野町の県境にある)を見られて「夜は明智 月は入野に 身は成地 いつも花見る 休石かな」と詠まれたという。


史蹟「休石(やすみいし)」の伝記
 人皇第九十六代後醍醐天皇は、鎌倉幕府倒幕のため笠置で幕府軍と衝突したが敗北し執権、北条高時に捕えられ、元弘2年(1332年)3月7日、京都六波羅をご進発、響く何の旅路を重ねられ、美作の国より備中路に入られ、旧阿哲郡大佐町大井野を通過、市倉峠を越え、入野(現在の井原)に至り、落合より当地花見へご到着されこの大井氏に御輿を駐(やす)め、しばしご休息遊ばされました。
天皇は更に北上、明智峠を越され、伯耆路に入られ4月1日隠岐島へ流配されました。
よってこの地を休石と呼ぶようになり、爾来天皇を偲び毎年旧暦9月15日、後醍醐神社の祭として執行し今日に及んでいる。(文:現地由来書き看板転載)(2025年5月18日撮影)

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白加美神社の夏祭り2025

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 2025年7月20日に小田中の白加美神社で夏祭りが行われました。
毎年町内の大勢の子ども達や家族連れの皆さんが来られ、賑やかに執り行われています。町内会の人々が一同に集う機会が年々少なくなってくる昨今、こういったお祭りは貴重な機会ですね。境内には屋台が設けられ、大人ならビール飲み放題です。また、子ども達にはゲームが用意されていて楽しそうな声がこだましていました。

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徳守神社夏越祭2025

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 2025年7月23日、津山市宮脇町にある徳守神社境内で行われた「夏越祭」の様子です。茅の輪くぐりは、夏越の祓という行事の一部で、半年間の罪や穢れを祓い、残り半年の無病息災を願う行事ですが、作法を忘れ慌てましたが、何とか皆さんを真似てお参りできました。境内には沢山の家族や子ども達や若者が溢れ活気に満ちていました。
 市内の児童や高校生による絵書灯ろうが神社の周りに飾られたり、美作高等学校の生徒さんの演芸などが行われ、大勢の方が熱心に鑑賞されていました。それに豪華な景品が当たる抽選会を楽しみに来られた人など思いは様々。また、すぐ隣の徳守会館では、納涼きもだめしがあり、夜遅くまで長蛇の列でした。私は、残念ながら午後6時からの奉納演芸には間に合わず、また用事で8時からの抽選会やプロジェクションマッピングも見えず残念でした。
※「水無月の夏越しの祓する人はちとせの命のぶというなり」と古歌を唱えながら、左まわり・右まわり・左まわりと、八の字を書くように3度くぐり抜ける。

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菖蒲(あやめ)を愛(め)でる会

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 友人から誘いを受け、2025年5月4日津山市神戸にある、後醍醐天皇復活の宮 作楽神社で「菖蒲(あやめ)を愛(め)でる会」があり出かけてきました。
 菖蒲の咲くころ何度か来させていただいていますが、今年の菖蒲は何とも言えない綺麗な色で思わず引き込まれていくようでした。
 4日の境内では沢山の方々が来られていて賑やかでした。また、詩吟、琴の演奏、謡曲などがあり、気持ちのいい青空の下で琴の演奏を聴いたり、散策したりしてきました。海外の方の姿も見かけましたよ。

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森家と三日月藩(佐用町)

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 森家はもともと清和天皇からの流れを汲む氏族といわれ、相模国森郷を領したのち森氏を名乗ったと伝えられています。森家が歴史上に現れるようになるのは16世紀、森可成のころからで、可成はのちに織田信長に仕え美濃国金山を領することになります。
 また森家は著名な人物も多く輩出しており、この中でも先の森可成のほか森長可や森長定(蘭丸)などは特に有名な歴史上の人物としてよく知られています。
 三日月藩森家にはこのような氏族の後裔(こうえい)として森忠政が開いた津山藩森家(現岡山県津山市)を本家とし、その分流として成立します。慶安二(1649)年、後の三日月藩租である森長俊は二代津山藩主森長継の子として生まれ、延宝四(1676)年には藩主森長武に領内の一万五千石を分け与えられ津山新田藩を開きます。
 しかし元禄十(1697)年、本家である津山藩森家が改易となったときに森長俊は播磨三日月の地に移され、ここに三日月藩が始まることになります。
 三日月藩の領地は現在の三日月町、佐用町、上月町、南光町、新宮町、山崎町の一部にまたがり、佐用群内では四十の村、新宮では七の村、穴粟郡では十八の村の計六十五村を数え、石高は津山の頃と同じ一万五千石でした。
 後の三代俊春、四代俊韶のころには、今の岡山県と兵庫県内に四万石ちかくを預かり五万四千四百三十石を有したこともあったようです。
 さて、この長俊の後三日月藩の藩主は二代長記、三代俊春、四代俊韶、五代快温、六代長義、七代長篤、八代長国、九代俊滋と続くことになります。
 藩主の説話もいくつか残っており、初代長俊は長身で鼻筋が高く眼光の鋭い人であったといわれ、いまでも菩提寺(ぼだいじ)である高蔵寺(こうぞうじ)にはその面影を伝える木造が残されています。二代長記は氏神の日岡八幡宮(ひおかはちまんぐう)、菩提寺の高蔵寺の増築を行っています。三代俊春は学問を好み、四代俊韶も能書であったと伝えられ、また五代の快温も学問を好み私金でを投じて藩校廣業館(こうぎょうかん)を設立し、学問・武芸に力を入れたとされます。
 この後三日月藩は九代の俊滋のときには明治維新(めいじいしん)を迎え、さらに明治四年の廃藩置県(はいはんちけん)で藩知事(はんちじ)を免ぜられたことをもって三日月藩九代174年の治世は終わりを告げることとなりました。(文:兵庫県佐用郡三日月町発行『森家一万五千石の陣屋 三日月藩乃井野陣屋跡』より転載)(撮影2023年5月18日・20日)(佐用町許可済み)

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