兼田児童公園(川崎)
津山市川崎にある兼田児童公園に出向いてきました。ここにはイナバ化粧品店にもほど近く何度か来ていましたが、今回は南側入り口から入りました。さっそく滑り台や遊具が見えてきました。そしてもう一つ、公園内には兼田荒神社が祀られています。(2020年6月7日撮影)
津山市川崎にある兼田児童公園に出向いてきました。ここにはイナバ化粧品店にもほど近く何度か来ていましたが、今回は南側入り口から入りました。さっそく滑り台や遊具が見えてきました。そしてもう一つ、公園内には兼田荒神社が祀られています。(2020年6月7日撮影)
押渕神社は、津山市押渕164にある神社です。吉井川に沿って県道26号線沿いの旧道の西側の田んぼに押渕公会堂の案内があり、それを目指していくと駐車場に着きます。(境内には押渕公会堂もあります。)また、社務所内には、綺麗な色の保存状態の良い絵馬が飾ってあります。今回、案内くださったのは神社総代でもいらっしゃる日下英彦さんです。
『岡山県神社誌』によれば旧村社で拝殿と本殿があり、創建年月・由緒等不詳。明治十年三月十三日字寺床より遷座。主祭神は大国主大神、摂末社は日吉神社とありますが、拝殿は見当たりませんでした。(2020年6月24日・29日撮影)
四足門は、大手の二の丸の入口にある門です。門は、廃城後の明治7年に中山神社(津山市一宮)の神門として移築されました。絵図と比べると、屋根が瓦葺から檜皮葺に変わっていますが、現在でも見ることのできる数少ない津山城の建物の一つです。
絵図や現在の神門の調査から、薬医門であることや、扉のついていない城門であったこと、柱の位置関係が絵図と重なることが分かりました。発堀調査では、門の礎石の根石を確認しています。
ヨーロッパにつたえられた津山
17世紀のはじめ、美作にも、青い目の宣教師が、いくたびかおとずれ、キリスト教を布教しています。そのころの津山の様子が、宣教師によって、次のようにヨーロッパに伝えられています。
「森忠政は、領内にキリシタンはいないと幕府に報告して、キリスト教を黙認している。城下町の近くには、美しい墓地があって、キリシタンは、そこに行って、祈りをささげている。墓地の中央には、高さが3メートルをこえる、すばらしい十字架ががある・・・。」(『日本キリシタン宗門史』より)
作楽神社(津山市神戸433)でアヤメが咲いているとの事で観に行ってきました。今年は新型コロナウイルスの影響もあり境内を訪れる人影もなく静かに咲いていました。このお花たちは、地元住民有志や院庄花作りボランティアの皆さんがお手入れされているそうです。(2020年5月9日撮影)
令和元年5月4日、令和最初の「矢筈山登山会」が開催された。(矢筈城の概要は⇒こちら)
参加者38名。遠く大阪市、鳥取市内からも参加する方がおられた。
開会式、安全祈願のあと、意気揚々と登山を開始した。(この記事は2019年5月4日の登山会の記録です。)
お食事処たかくらさん宅の、奇麗に咲いているお庭の花たちを送っていただきました。そして案内役は可愛いお孫さんたちです。広いお庭には芝桜や牡丹の花をはじめ色々なお花たちが美しく咲いていますね。こんな時世だからこそお花を見ると癒されます。(2020年4月28日撮影)
(前回も三宝荒神社の秋季大祭の写真を送ってくださいました。)というわけで、津山市内の皆さんも自慢の景色、歴史の写真等ありましたら「津山瓦版」迄送ってくださいね。
石燈籠は仏堂に献燈する用具として中国・朝鮮をへて伝わり、後に神社にも用いられるようになった。
献燈は昼に法会を行う際、浄火としたもので、照明用具としてではなく仏前の燈明か法燈を意味するものである。
奈良時代前期の奈良当麻寺燈籠は我が国では最も古い。はじめ堂の正面にだけ建てたものが、室町時代末期より左右一対配されるようになった。
江戸時代から明治期にかけての形式の変化は著しく、より重量感と座りのよい四角形石灯籠に撥形の竿が利用されるようになった。(文:勝北公民館発行『勝北むらの石仏』より)
2020年3月12日、お昼時間を利用して中山神社参拝に出かけてまいりました。
前日に社務所前の杏子の木が満開だったのを見ていたので、丁度晴れたので撮影してきました。また、参道両脇の樹木をよく見ると、それぞれの樹木に可愛い花が咲いていました。普段は立ち止まることもなく通り過ぎていくので気が付きませんでした。
香山家 香山太郎兵衛 東南条郡野介代村 森藩~松平藩
大庄屋まで
香山氏は、播磨国揖保郡香山の地名によるという。康正2年(1456)山名氏の家臣となり、香山城主であった。羽柴秀吉に攻められて落城し、香山安正が美作に逃れ、高野本郷の中島隆重の婿となった。
森藩によって大庄屋に任命され、貞享年間に川崎村から野介代村へ転居した。
大庄屋として
貞享元年(1684)吉井川の大洪水があり、川崎村は大きな被害を受けた。翌年、森長成の命により、川崎村200余戸と川崎八幡神社や高福寺を北方の丘陵や野介代村に移転した。香山太郎兵衛は、移転に反対する百姓を説得して、移転させ、丘陵の開墾に尽力した。
元禄8年(1695)幕府は江戸の中野に犬小屋建設を森藩に命じた。その経費として特別な負担を申し出た大庄屋や大年寄の中に香山太郎兵衛の名がある。森藩改易の翌年、松平長矩が新しく津山10万石の領主となった。この時太郎兵衛は領民の代表として土居藤七と江戸へ行き祝意を表している。