衆楽園のスイレンの花と木々
大名庭園としての国の指定は、岡山市の後楽園に次いで岡山県下で2例目です。池は中島と中島にかかる橋によって、大まかに三つの水面に分かれており、北の池は東と北から築山が迫るなど、深みのある物静かな景観を作り出し、余芳閣の2階からは、このような奥行きのある風景の背後に、はるか東方の山並みを借景として望むことができます。これに対して、中央から南の池は、池をめぐる道づたいに広々とした水面の風景を楽しむことができます。(2020年6月6日・8日撮影)
大名庭園としての国の指定は、岡山市の後楽園に次いで岡山県下で2例目です。池は中島と中島にかかる橋によって、大まかに三つの水面に分かれており、北の池は東と北から築山が迫るなど、深みのある物静かな景観を作り出し、余芳閣の2階からは、このような奥行きのある風景の背後に、はるか東方の山並みを借景として望むことができます。これに対して、中央から南の池は、池をめぐる道づたいに広々とした水面の風景を楽しむことができます。(2020年6月6日・8日撮影)
ヨーロッパにつたえられた津山
17世紀のはじめ、美作にも、青い目の宣教師が、いくたびかおとずれ、キリスト教を布教しています。そのころの津山の様子が、宣教師によって、次のようにヨーロッパに伝えられています。
「森忠政は、領内にキリシタンはいないと幕府に報告して、キリスト教を黙認している。城下町の近くには、美しい墓地があって、キリシタンは、そこに行って、祈りをささげている。墓地の中央には、高さが3メートルをこえる、すばらしい十字架ががある・・・。」(『日本キリシタン宗門史』より)
津山文化センター(津山市山下68)が改修工事を終えて綺麗になりました。
津山文化センターは、永い時の流れを通じて親しまれてきた津山城跡に「現代の城」として、郷土を愛する多くの人々の力を結集して文化の向上、振興に貢献するため建設された市民のコミュニケーションの場です。『昭和モダン建築巡礼(西日本編)』の中で、屋根のない斗きょう(ときょう)建築と、天守閣のない城跡。欠落したもの同士が並ぶことで絶妙な景観が出来上がっている。と評価されています。また、『日本におけるモダン・ムーブメントの建築115選』に津山文化センターが選ばれています。2017年7月には、B'zの凱旋コンサートが行われました。
2020年4月14日に阿波方面へドライブに行ってきました。
津山城(鶴山公園)のさくらの次にはウッドパーク声ヶ乢、勝北総合スポーツ公園、その次が阿波にある尾所のさくらですが、開花が進んでいるか確かめに阿波方面へ出かけてきました。県道118号線沿いを通るたびに思うことがあります。尾所のさくらに到着するまでの景色が素晴らしいなぁ~と感動します。とても写真では伝えきれませんが、一部を掲載してみます。
2020年4月2日の午後、津山城(鶴山公園)に満開のさくらの花を撮影しに行ってきました。
曇り空ですが津山城(鶴山公園)は満開のさくらで美しく華やいでいました。時折、自撮りに夢中な親子の笑い声がしていました。また、子どもたちは多くの階段をものともせず元気に走り回っていました。城内では、新型コロナウイルス感染が心配されるので飲食や長期滞在等はひかえるようアナウンスがあります。今週末は満開で美しいさくらの花を楽しむことができるでしょう。
さくらの開花が宣言されていたので、2020年3月29日に津山城(鶴山公園)まで行ってきました。
さくらの花は一部が満開となっていましたが、本番はこれからです。菜の花の黄色と緑、そしてさくらのピンクがとても美しく、来られていた方が「わぁ~きれい!」と写真を撮られていました。
世界中がコロナウイルス感染の恐怖のためにお客様の数も激減していましたが、来られていた方々は静かにさくらを鑑賞したら足早に帰っておられました。
大熊家屋敷跡(現津山朝日新聞社)の門が復元された。先日掲載された記事では1700年代としていたが、津山松平藩の初代家老・大熊六左衛門がここの住人になったのは1710年以降であり、それまで城内京橋門西にあった屋敷を新御殿造営に伴い転居。新築もしくは森藩時代から1世紀を経た建物を修理したと考えられる。それから約300年。明治以後150年余りの間に改修されるなどし、新聞社の業務にも使用されていた門の長屋部分は高度成長期、老朽化で取り壊された。
宝永・正徳年間(1704~13)の城下町絵図によると、大熊屋敷は現在の津山朝日新聞社に加え、土肥酒店から小野病院も含む広大な敷地を有していた。(文:津山朝日新聞2020年3月17日大熊屋敷の門復元に寄せて得能良平記事より一部抜粋)
吉井川に沿って安岡町から南新座までの静かなところをお散歩すると、途中、石灯籠のところで河川敷に降りる階段があるので降りてみると、石垣に沿うようにお地蔵さまが祀られています。
「このお地蔵様は、この辺で溺れて亡くなった子供達の為に建てたって聞いてますよ。筋違橋のもう少し上手のお花淵から水練場にかけては、かなり水量も多くて、流れもキツかったんですよね。それで何人かは亡くなった方がいたんです。ウチの母親もたまにお詣りに行ってます。^_^
元々は対岸の津山口あたりにあったものが、あの場所に氾濫の後流れ着いたらしいですよ。」と安岡町在住の廣本 慎太郎さんより情報提供をいただきました。
香山家 香山太郎兵衛 東南条郡野介代村 森藩~松平藩
大庄屋まで
香山氏は、播磨国揖保郡香山の地名によるという。康正2年(1456)山名氏の家臣となり、香山城主であった。羽柴秀吉に攻められて落城し、香山安正が美作に逃れ、高野本郷の中島隆重の婿となった。
森藩によって大庄屋に任命され、貞享年間に川崎村から野介代村へ転居した。
大庄屋として
貞享元年(1684)吉井川の大洪水があり、川崎村は大きな被害を受けた。翌年、森長成の命により、川崎村200余戸と川崎八幡神社や高福寺を北方の丘陵や野介代村に移転した。香山太郎兵衛は、移転に反対する百姓を説得して、移転させ、丘陵の開墾に尽力した。
元禄8年(1695)幕府は江戸の中野に犬小屋建設を森藩に命じた。その経費として特別な負担を申し出た大庄屋や大年寄の中に香山太郎兵衛の名がある。森藩改易の翌年、松平長矩が新しく津山10万石の領主となった。この時太郎兵衛は領民の代表として土居藤七と江戸へ行き祝意を表している。
2020年3月12日の津山城(鶴山公園)の本丸の様子です。
しだれ梅が満開を過ぎたころかなと思いつつも本丸まで上がってきました。本丸ではハクモクレンの花がちらほら咲きだしていました。今年は本丸の東側のしだれ桜が石垣の修復のため切れられ少し寂しけれど晴れやかになっています。