
津山の今昔を辿ってみました。(1)

三宝荒神社(高野本郷)

小田中のさくら

今(2015)から約20年~80年前の津山市内の様子

備中松山城跡(高梁市内山下)国指定史跡
備中松山城跡は、高梁市にある山城です。江戸時代に建てられた天守閣が現在も残る城は全国に12ありますが、そのうち最も標高の高い場所にある城がこの備中松山城で、天守閣は臥牛山の峰の一つ、小松山の山頂標高約430mに建てられています。
備中松山城跡がある臥牛山には、南北に延びる尾根上に中世から近世にかけて城が築かれていて、それら全体が国の史跡に指定されています。史跡指定地は、臥牛山に8ヶ所点在しています。また、天守閣、二重櫓、三の平櫓東土塀は国の重要文化財(建造物)に指定されています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以降、備中国を治めるために派遣された小堀氏が在城したのち、池田氏→水谷氏→安藤氏→石川氏→板倉氏と城主は変わり、板倉氏が8代にわたって藩政を担ったのち明治時代にいたります。備中松山藩として成立したのは池田氏の時ですが、城の整備は小堀氏のころに始まっていました。天守閣や二重櫓が現在の形に整備されたのは天和3年(1683年)のことで、水谷勝宗が備中松山藩としてこの地を治めていたころにあたります。彼は城の整備だけでなく、山の麓に御根小屋と呼ばれる藩主の住まいを兼ねた政庁を築きました。ここには現在、岡山県立高梁高等学校がありますが、周囲を取り囲む石垣がよく残されています。水谷氏が治めた時期は、高梁川河口付近の新田開発や玉島港の整備も行われて、備中松山藩における藩政の基礎が固められた時代でした。
備中松山城は、小松山の山頂周辺の地形をたくみに利用して防御性を高めていますが、それによって城に近づいて見た時より立派に見せる視覚的な効果も大きかったと思われます。大手門周辺の石垣とその北側の高い崖の姿は、そのような備中松山城の特徴をよく表しています。
備中松山城跡の最大の見どころは、江戸時代当時の建物が現存し、山城本来の姿を見ることができるということにありますから、実際に山に登って、その立地や城からの眺めを体感することをおすすめします。大手門付近から見上げると、重なり合うように築かれた石垣は見事で、堅固な山城の姿を今に伝えてくれます。(文:岡山県教育委員会発行『江戸時代の城めぐり~おかやまの城と陣屋~』より転載)
備中松山城まで登るにはふいご峠駐車場で下車して登城道から徒歩で登る
登城道をかなり登る 登城心得 よくぞまいられた 城主
天険の要塞を利用した大手門附近の城累 三の平櫓東土塀(国重要文化財)
天険の要塞を利用した大手門附近の城累
大手門:城の背後を搦め手と呼ぶのに対し、城の表を大手と呼びます・元々は追手(おうて)と書いていましたので、そのように呼んでいることもあります。大手門は、その名のとおり、城の表側に作られた、城の顔と言えるような門のことです。
三の丸跡
国指定史跡:備中松山城跡、
国指定重要文化財:備中松山城、建造物:天守、建造物:二重櫓、建造物:土塀
二の丸へと続く階段
二の丸を見下ろす光景 お手洗い
土塀
与謝野晶子の歌碑 雪隠跡 備中松山城復古図
備中松山城本丸へと進む 本丸南御門と天守
備中松山城が「真田丸」に登場!NHK大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像に登場しています。備中松山城の四箇所が使用されています。
左:五の平櫓、中:本丸南御門、右:六の平櫓 六の平櫓内部
天守閣 天守閣内部
天守閣内部(天守柱) 文献調査
天守閣内部(御社檀)
本丸東御門 天守閣を横から眺める
天守閣 二重櫓~自然と人工の築城技術がみられる~
天守横を進むと腕木御門が見える 二の丸から裏側へ進む
二重櫓附近の石垣 番所附近 九の平櫓跡
(2016年4月23日撮影)(協力:岡山県教育庁文化財課文化財保護班)