財政破綻した備中松山藩を立て直した「山田方谷」と「津山」

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 津山城の新しいシンボルとして親しまれている備中櫓にゆかりがあり、鳥取城主であった池田備中守長幸は、元和3年(1617)に備中松山城に移り6万5千石を領地としました。
 また、これ以前の慶長年間には、小堀家が備中松山の領主として入っており、二代目小堀遠州は備中松山城の修理や城下町の建設を行いました。津山市の衆楽園が作庭されたとされる時期は遠州没後なのですが、一説には、衆楽園は遠州流の庭園であるとされています。
 このように、なにかと津山とゆかりのある備中松山藩ですが、その備中松山藩の儒学者として、あるいは藩政改革の指導者として著名な山田方谷も、津山とゆかりのある人物でした。その一つに西洋流砲術の修行があります。山田方谷の年譜から見てみましょう。
 方谷は儒学者でしたが、幕末の混乱した情勢の中で軍制改革と西洋式砲術の必要性を早くから感じていました。ところが現実には諸藩の軍制は古式なものばかりでした。

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 そこで、弘化4年(1847)4月、方谷は西洋式砲術を学ぶために、弟子の三島毅(中州)を伴って、当時すでに西洋式砲術を採り入れていた津山藩を訪れました。方谷が学んだ天野直人は、天保13年(1842)6月には津山藩における荻野流砲術師範役に就いていましたが、天保15年(1844)3月、幕府砲術教授高島秋帆流砲術の修行のため高島門下の下曽根金三郎のもとに遣わされ、また、同じころに星山流砲術の皆伝も受けています。そして、弘化2年(1845)には一年に及ぶ高島流の修行を終えた人物でした。

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 津山を訪れた方谷は本源寺に滞在して、昼は砲術修行を行い、夜は希望者に対して大学の講義をしています。方谷は、この津山訪問を七言絶句にして
一筇※(いっきょう)行けば尽く幾重の山
朝に松山を発し暮れに勝山
更に東方に向かい山を閲(み)て去る
なかんずく最もよきはこれ津山なり
と詠んでいます。※筇-杖のこと

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 ひと月余りで帰国した方谷は、直ちに藩内で指導を始めました。年譜では、これが備中松山藩の軍制改革の始まりであるとしています。
 こうした方谷と津山との交流はその後も続き、安政2年(1855)2月には、砲術にも長けていた津山藩の神伝流師範植原六郎左衛門が、逆に備中松山藩を訪れ、玉島海上で水上砲術演習や神伝流泳法の指導にあたりました。(文:『津山城百聞録』より転載)

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高梁駅前の方谷さんもマスクをしておられました。

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館内を案内してくださった、岡山県高梁市山田方谷記念館館長で山田方谷末裔の山田敦さんです。
(2021年2月6日撮影)