山田方谷家塾 牛麓舎跡(高梁市)
牛麓舎は、山田方谷が有終館の学頭(校長)として藩から与えられた邸宅で天保9(1838)年に開いた家塾です。
この地が、臥牛山(がぎゅうざん)の南山麓にあったので牛麓舎と名づけられました。方谷の学風を慕って入門するものが常に数十人あり、進鴻渓、大石隼雄、三島中洲、寺島義一など、のちに藩政に活躍した人材を輩出しました。
牛麓舎は、山田方谷が有終館の学頭(校長)として藩から与えられた邸宅で天保9(1838)年に開いた家塾です。
この地が、臥牛山(がぎゅうざん)の南山麓にあったので牛麓舎と名づけられました。方谷の学風を慕って入門するものが常に数十人あり、進鴻渓、大石隼雄、三島中洲、寺島義一など、のちに藩政に活躍した人材を輩出しました。
桁行2間、梁間1間半の切妻造、桟瓦葺の平屋です。一方の妻側に半間の庇(ひさし)を設けて戸口とし、他の三方は窓を大きくとって明り障子を立てまわす開放的なつくりとなっています。
臥牛亭は、江戸幕府14代将軍徳川家茂(いえもち)・15代将軍慶喜(よしのぶ)の2代の将軍に信頼され、2度にわたって老中を勤めた、藩主板倉勝静(かつきよ)が農民の苦労をしのぶため、御根小屋(藩庁)の一郭に農園を設け、明農圃と名付け自ら農耕をしたと言われています。さらにその一隅に小亭(12.4㎡)を建て、農耕の神々を祀り五穀の豊穣を祈りました。
明治6年(1873)に御根小屋の全建物と共に撤去されましたが、山田方谷はこれを惜しみ、対岸の蓮華寺境内へ、その後八重籬(やえがき)神社に移築され、臥牛亭あるいは明農亭として現在に至っています。平成22年に保存修理を実施しました。
昭和33年2月24日指定 高梁市教育委員会(文:現地案内板より)
今年も千光寺の梅の花や三州の花が満開の季節になりました。
2021年3月10日暖かな春の日に誘われて、城東地区にある千光寺に伺ってきました。山門で見かけたピンク色の可愛い梅の花です。青空に映えて可愛く咲いています。黄色い木はさんしゅうの木です。宮崎県の民謡「稗つき節」に「庭のさんしゅうの木 鳴る鈴かけて 鈴の鳴るときゃ 出ておじゃれよ〜」と歌われています。歌詞のなかの「さんしゅうの木」が山茱萸ではないかと言われています。(一方には山椒と言う説があります。)
津山城の新しいシンボルとして親しまれている備中櫓にゆかりがあり、鳥取城主であった池田備中守長幸は、元和3年(1617)に備中松山城に移り6万5千石を領地としました。
また、これ以前の慶長年間には、小堀家が備中松山の領主として入っており、二代目小堀遠州は備中松山城の修理や城下町の建設を行いました。津山市の衆楽園が作庭されたとされる時期は遠州没後なのですが、一説には、衆楽園は遠州流の庭園であるとされています。
このように、なにかと津山とゆかりのある備中松山藩ですが、その備中松山藩の儒学者として、あるいは藩政改革の指導者として著名な山田方谷も、津山とゆかりのある人物でした。その一つに西洋流砲術の修行があります。山田方谷の年譜から見てみましょう。
方谷は儒学者でしたが、幕末の混乱した情勢の中で軍制改革と西洋式砲術の必要性を早くから感じていました。ところが現実には諸藩の軍制は古式なものばかりでした。
多胡家 多胡勘右衛門 東北条郡綾部村 森藩~松平藩
大庄屋まで
多胡氏は、尼子氏の家臣として出雲国に居住していた。尼子氏滅亡後は宇喜多氏に仕え、医王山合戦では宇喜多氏の武将として戦っている。秀吉の朝鮮出兵に参加したといい、宇喜多氏滅亡後、綾部村に帰農した。吉兵衛が森藩の大庄屋に任命され、以後大庄屋を勤めた。
大庄屋として
大庄屋を勤めた多胡氏は、屋号を米山という。経済的に行き詰まり、安永5年(1776)大庄屋職を取り上げられ、その後再び大庄屋に任命された。栄二郎は第1次長州戦争に従軍した。(雲路日記)
六地蔵は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の衆生を済度するという思想から、六尊の立像を半肉彫したもので六体それぞれ異なる特物印想をあらわしており、平安時代から六地蔵信仰も始まったといわれている。因みに仏像図絵による六地蔵は次のとおりである。(『日本石仏辞典』による)
地持地蔵(護讃地蔵)両手で念珠を持つ
陀羅尼地蔵(弁尼地蔵)右手施無畏印・左手引摂印
宝性地蔵(破勝地蔵)合掌
鶏亀地蔵(延命地蔵)右手錫杖・左手如意珠
法性地蔵(木休息地蔵)両手で柄香炉を持つ
法印地蔵(讃竜地蔵)両手で幢幡を持つ
大高下ふるさと村は、今も茅葺きの民家の多い農村であるが、豪雨が続くと阿波川が氾濫し、水害を被ることしばしばであった。改修した川土手の内側に並ぶ地蔵尊の列は、出水に洗われて乱れた共同墓地などから集めてきたもので、水の平和を見守る地蔵菩薩のお姿です。
このほか、阿波村は高福寺前の首無し六地蔵、尾所の六地蔵旧道に残る道しるべ兼用の地蔵など、村の民族史にかかわる石仏が多い。阿波村(文:立札より)
紫雲山 光嚴院 泰西寺(第十八番)
当山は元の泰山寺「光明坊」と元の「西山寺」を合した寺であり、寺号は泰山寺の泰と西山寺に西をとったものであります。
両手ら合併に際しては泰山寺の本山が京都山科の「勧修寺」、一方西山寺の本山は高野山であり困難をきわめました。たまたま明治四十五年四月、西山寺の庫裡が焼失し、これを機に合併が一気に熟し、大正三年に現在地に新寺を建立しました。
本堂・客殿及び境内
本堂と客殿には「川柳襖」、境内には川柳句碑及び川柳掲示板が樹木等に取り付けられており、川柳寺として広く知られています。本堂の川柳襖は「蓮の葉の露は真珠の夢を溜め」ほかが、水粉千翁の筆で見事に描かれています。
また、境内には『人知れず花壇の隅に咲いて散り』の句碑の他、数多くの信仰川柳を掲示。その他、四国八十八ヶ所霊場のお砂を勧請した「お砂踏み・健康聖道」は裸足で歩いて頂く、ユニークなものであります。
奥の院
元の西山寺跡には足王大権現を祀り、当山の奥の院・川柳公園として信仰に観光に脚光を浴びています。(当山から約五百メートル、句碑約三百基が建ち並ぶ日本一の川柳公園です)(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)
2021年、明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。
昨年はコロナウイルス感染症拡大防止のため東京オリンピックが延期になったり、イベントが軒並み中止になり本当に大変な年となりました。今年も変異したコロナウイルスに気を付けなくてはなりませんが、平穏に暮らせる日々が取り戻せますよう祈るばかりです。どうか皆様もお健やかに暮らせますようお祈りいたします。
2020年12月19日(土)ソシオ一番街で「七福神もちつき縁起年の瀬市」をはじめ、盛りだくさんのイベントが開催され、久しぶりに多くの方が来られて賑わっていました。
午前11時から美作国七福神霊場会の僧侶による法楽、餅つき、銭太鼓の演奏、午後1時からは太極拳、大道芸、太鼓のステージなども。その他「手作りマルシェ」や津山ホルモンうどんも出展して会場は大盛り上がりでした。
令和2年度津山洋学資料館冬季企画展「仁木永祐と籾山黌をめぐる人々」
会期:令和2年11月28日(土)~令和3年2月21日(日)津山洋学資料館 企画展示室(津山市西新町5)
津山市街の北方、籾保の丘陵に、高さ4メートル程もある、大きな石碑があります。この石碑は、江戸時代後期から明治時代にかけて、この地で医療や教育、政治に尽力した医師 仁木永祐を顕彰するため、門人や地域の人々によって建立されたものです。
永祐は1830(文政13)年に下津川村(現在の津山市加茂町下津川)の中庄屋 豊田伊兵衛の四男に生まれました。江戸や大坂へ遊学して洋学と漢字を学び、籾山村(現在の津山市籾保)の医師 仁木隆助の養子となって地域医療に尽力。明治時代には自由民権運動にも参加して「美作の板垣退助」と呼ばれました。