森忠政の義母生光院霊屋(久米南町)

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生光院霊屋(みたまや)
 創建時の名称、美作国主初代森忠政がその義母生光院のために建立されました霊屋で、正面須弥壇には、生光院が生前崇拝の弥陀如来立像と生光院の位牌とを安置されました。施工者は大阪の番匠勝右衛門、当時の住職は第12世深誉。
 生光院は柴田勝家の女で、初め塙備中守直政に嫁し、直政死後原隠岐守に再嫁せられ天正11年(1583)隠岐守戦死により生光院はその子長満(4歳)の成長を護るうち天正18年(1590)秀吉は長満が勝家の外孫であるの故を以て、之を殺した。生光院は悲しみのあまり全く志を失い越前大野木に隠棲するようになり大野木氏ともいわれます。
 森忠政は、塙直政の養子となる約束がありましたが、直政死のためそのままとなり慶長8年(1603)美作国主として津山に来られました。慶長15年(1610)大野木氏が越前に存世のことを聞かれ、大いに懌び、家臣川村左介を特派して大野木氏を津山に迎え250石を給するなどして配慮至らざるなく、常には家臣富田久右衛門を傅として諸般世話せしめられました。

 寛永4年(1627)4月15日(一説14日)逝去、遺言によって誕生寺に葬られ葬儀導師は津山来迎寺(現成道寺)第四世相誉、生光院殿心誉祖栄大姉(大禅定門)と戒名せられ勢至堂の右手、大きい五輪塔二基のうち小さい方が生光院の石塔、霊屋は寛永8年(1631)10月の建設であります。

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 忠政は生光院の死後もよく留意して、その供養を怠らず自らの死(寛永11年(1634))に際しても誕生寺の霊屋の修理、特に屋根葺替えは呉々注意するよう遺命せられました。
 その後、津山森家より、この生光院霊屋に対して配慮せられましたものを抜出してみますと、一、年月不詳屋根葺替第二代森長継時の住職は第13世願誉 二、延宝6年(1678)仲秋吉日屋根修理 森伯耆守忠光 作事奉行舟越四郎左衛門時の住職は第14世精誉 三、元禄7年(1694)初冬中旬 屋根葺替第4代長成、寺社奉行奥田平左衛門担当 葺師は津山の弥右衛門 住職は第15世通誉
 津山森氏は、第4代長成逝去によって元禄10年(1697)国除となり津山を退去されましたが、備中西江原(転封して赤穂)の再興森氏はこの後も永く明治維新の頃まで約170余年誕生寺とのつながりを維持継続しておられます。

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観音堂
 生光院霊屋を観音堂に転用されましたのはいつの頃か確証がありません。
 津山森家国除が元禄10年(1697)翌11年(1698)頃作製の「境内絵図」では、生光院霊屋とあり16年(1703)草葺を瓦葺に改めその後は170年もあとの万延元年(1860)の「境内絵図」まで、確認できるものが見付かりません。万延年の絵図には観音堂と記入してありますから、観音堂に改められたのは遅くとも万延元年(1860)以前であらねばなりません。口碑では徳川後期明治にあまり遠くない頃と伝えています。

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 観音堂の御本尊は正観世音菩薩、稍大型の立像でありますが造像者、年代など詳ではありません。後この堂を宝物館に転用中他堂へお移しし、今日では元のとおり、この堂の御本尊としておまつりしてあります。(文:誕生寺提供資料より)(2021年9月4日撮影)

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観音堂

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観音堂
 寛永8年(1631)津山城主初代森忠政公(森蘭丸実弟)が生光院霊屋として建立す。境内中最古の建物。(岡山県重要文化財指定)(2021年9月4日撮影)